出自と諫言
- 李彦頴は字を秀叔といい、湖州徳清の人。少くして端重で強記。金の浙西侵攻に父と逃避した際、10歳で脇道を通り抜けて難を逃れた。紹興18年(1148年)進士、餘杭簿として、太守の曹泳の不正な酒業侵奪に抗議した。
- 富陽丞、御史台主簿を経て、金の敗盟・張浚の督師の際、陳良翰・周操と共に和議に反対したが、右正言尹穡が執政に付き和議派を優勢にする中、彦頴と穡の対話で「和議が是なら公が自ら任じるべきで、成れば功を公に帰し、成らねば身を引くべき」と論じ穡を怒らせた。
皇太子輔導と直言
- 皇子恭王府直講、権右史兼兵部侍郎として、経筵で張栻が時事に触れ孝宗の意に逆らった際「臣が阿諛せず直言できるのは聖明が上にあるからこそ」と弁護し孝宗の理解を得た。
- 皇太子擁立に伴い兼左諭徳、詹事制度の整備を建言。皇太子尹臨安兼判官として、張説の再任に反対を論じた。禮部侍郎兼侍講として士習の弊を論じ、詹事として皇太子の東宮学習の重要性を訴えた。
- 吏部侍郎権尚書兼侍読として、頻発する自然災害と求言の詔の疎かさを指摘、中批による処分の不透明さを批判した。金の朝見礼儀・接送費用の削減を建言。
参知政事としての諫言、晩年
- 端明殿学士簽書樞密院事を経て参知政事。湯邦彦の使金起用に反対したが用いられず、邦彦は使命を辱め貶された。両淮民兵の合肥訓練令の負担軽減を進言し容れられた。
- 虞允文が創設した封樁庫(辺防のための蓄え)の乱用に警鐘を鳴らし、上は「卿の言は正しい、朕の過ちだ」と改めた。病により資政殿学士知紹興府に転じ、勤約な政を行い、参知政事に復すも足の病で辞去を重ね、諫官に子の殺人事件を弾劾され鐫秩、知婺州で屠牛を禁じた。
- 紹興府知事、資政殿大学士、観文殿学士を歴任し、紹熙元年(1190年)致仕、家居10年、澹泊な生活を送り享年81で薨去。少保を贈られ諡は忠文。子の沐は慶元中(1195-1200年頃)趙汝愚ら善類を排斥し公論に非難された。