出自と蜀での治績
- 王剛中は字を時亨といい、饒州楽平の人。博覧強記で紹興15年(1145年)進士第二人。秦檜に阿らず教授に左遷されたが、檜死後召還され祕書省校書郎に抜擢。孝宗が普安郡王時代、王府教授として古今治乱・君子小人忠佞の弁を講じた。
- 中書舎人として「禦敵の要は敵の強弱に関わらず自ら治めることにある。将帥を選び戦士を練り辺儲を実にし器械を備えれば、請盟なら漢文帝、犯辺なら唐太宗となる」と論じ、上に称された。西蜀の帥選で「王剛中に及ぶ者はない」と評され、龍図閣待制知成都府置制四川となった。
- 呉璘配下の姚仲・王彦らも節度使として一方に雄居する中、剛中は身を法で律し礼で人に接し、恩威を並用して統御した。金軍が大散関を越えた際、単騎で夜200里を馳せ呉璘を叱咤し、蠟書で張正彦を動かし援軍を集めて金軍を撃退。捷報を届ける役目を部下に譲り「将帥の功、私に何があろうか」と語った。
蜀の内治、晩年
- 蜀の名士・募府の賢者・部使者州刺史の佐を選抜し、統率された内外連携体制を築いた。汰遣使臣の困窮に対し、善射の者の禄秩を復し、老弱には義倉米を給した。
- 成都万嵗池の疏浚・堤防整備、府学礼殿の修復、諸葛武侯祠・張文定公廟の整備、黄巢墓の毀損など、賢を顕し悪を癉らす施策を行った。
- 孝宗受禅後、宮僚として召され、禮部尚書直学士院兼給事中として鹵簿使を務め、端明殿学士簽書樞密院事、同知院事に進み「戦守は実事、和議は虚名。虚名で実事を害してはならない」と論じ、屯田・省費・選将・汰兵の4事を建言。享年63で薨去、資政殿大学士光禄大夫を贈られ諡は恭簡。
- 建炎間の階成岷鳳4州の壮丁徴発に反対し、5害を挙げて罷めさせた。布衣から公卿に至るまで嗜好なく、公務の余暇には著述を楽しんだ。『易説』『春秋通義』『仙源聖紀』『経史辨』『漢唐史要覧』『天人脩応録』『東渓集』『応齋筆録』など百余巻がある。