宋史卷三百八十六 列傳第一百四十五 金安節

金安節は字を彦亨といい、歙州休寧の人。宣和6年(1124年)太学から進士に及第。秦檜の兄・梓の不正を弾劾して檜の恨みを買いながらも屈せず、孝宗朝では龍大淵・曽覿の登用に繳奏で抵抗し続けた剛直の給事中・吏部尚書。至孝で兄弟に友愛深く、乾道6年(1170年)享年77で卒去した。

年表(2件)

出自と諫言

  • 金安節は字を彦亨といい、歙州休寧の人。日に千言を記憶する頴悟な資質で経史に博く易に精通。宣和6年(1124年)太学から進士に及第、洪州新建県主簿を経て、紹興初年、范宗尹に删定官として登用され、司馬光の宰相領総計使論を法とすべきと論じた。
  • 殿中侍御史として、韓世忠の子・彦直が父兄の秉政により貼職を授かったことを「自ら法を廃する」と批判。任申先の忿戾を弾劾、秦檜の兄・梓の梁師成への附麗を弾劾し罷免させ、檜の恨みを買った。母の喪により去り、檜死後起用された。
  • 大理卿として、治民の道は徳を先とし刑を後とすべきと論じた。偽造塩引の事件では、時効10年・自首無死法を理由に減刑を主張。宗正少卿として金使施宜生の館伴を務め、顕仁皇后の喪服(黒帯)着用問題で厳正に対処した。
  • 楚州への送伴使として、副使耶律翼の不法な鞭打ちに厳しく抗議し一時削秩されたが、後に金主自身の確認で正しさが証明され復官。侍講給事中として杜莘老の弾劾を庇い留任させた。

金主完顔亮の侵攻後の議論、龍大淵・曽覿への抵抗

  • 金主亮の淮河侵攻後、進取・招納・備守の三策を陳し、備守を本とすべきと論じた。楊存中の江淮荊襄宣撫任命に反対し、劉宝・王権の刻剥な人物の重用にも反対した。廬州の合肥・和州の濡須の要地としての重要性を魏の明帝・孫権の故事を引いて論じ、州県の省併に反対した。
  • 孝宗嗣位後、内降の科(内侍省・御薬院・内東門司の冗費)の全廃、堂除の吏部への回帰、蔭補の文資限定などを提案。龍大淵・曽覿の登用に対し、繳奏で拒み続け、隆興改元後の知閤門事任命でも封還録黄で抵抗。周必大と共に「臣らが陛下の詔に従えば天下の謗を負い、大臣が開陳しなければ大臣が責を負う」と諫めた。
  • 上意が回らぬまま自劾を申し出、大淵・覿の任命は取り止められた。李珂の編修官擬任も罷免させ、上から「卿の孤立無党を知る」と評され、張浚も「金給事は真に金石の人だ」と評した。

対金議論と晩年

  • 兵部侍郎として、金の僕散忠義の和議提案の四事について、「姪国」の呼称と「大」字を用いない国号、再拝の礼はいずれも不可とし、海泗唐鄧は淮襄の屏蔽として渡すべきでないと論じた。歳幣増額はやむを得ないとしつつ、欽宗の梓宮返還は期待薄と見て、講好後の軍備強化を主張した。
  • 中書舎人の胡銓が「安節は太上の旧人にして陛下の老成、漢の張蒼・唐の張柬之・本朝の富弼・文彦博も八十歳で退けられなかった」と留任を求め、上はこれに応じた。権吏部尚書兼侍読を経て、致仕を重ねて願い、敷文閣学士致仕。「去の日、縉紳が皆歎羨し、中興以来の全名高節はまれ」と評された。乾道6年(1170年)卒去、享年77。開府儀同三司少保を贈られた。至孝で兄弟に友愛深く、田業を推し譲った。晁公武・龔茂良を推薦し二人も認知しなかった。秦檜と18年間忤ったが屈しなかった。文集30巻、奏議表疏、周易解がある。