出自と諫言
- 王藺は字を謙仲といい、廬江の人。乾道5年(1169年)進士、信州上饒簿・鄂州教授・四川宣撫司幹辦公事を経て武学諭となり、孝宗の幸学に際しその応対で目に留まり、樞密院編修官に累進した。
- 輪対で五事を上奏、孝宗に「王藺は敢言である」と評された。宗正丞、舒州の陛辞で時事の不正を諫め、「峭直な議論」と称された。監察御史として、陸贄の奏議を賜り、その分析を求められた際「徳宗の失は自用にあり、天下の士を疑ったことにある」と答えた。
- 起居舎人として、朝廷の除授の失当、台諫の職務怠慢、給舎の繳駁廃止、内官の恩賜の乱れなどを指摘し「卿の言がなければ朕は何も聞かなかった」と評された。禮部侍郎兼吏部として監司人選(潘時・鄭矯・林大中ら8人)を推薦した。
光宗朝と晩年
- 光宗即位後、知樞密院事兼参政、樞密使に進む。皇后家廟建立への反対、応詔の八事上疏などを行ったが、中丞の何澹に論じられ罷免。帥閫・易鎮蜀の任も就かず、寧宗即位後は湖南帥に転じたが台臣に罷免された。
- 帰郷して祠禄となり、7年後に薨去。盡言隠さず嫉悪甚だしく、同僚に忌まれ結局不合により去った。奏議が世に伝わる。