宋史卷三百八十五 列傳第一百四十四 施師點

出自と地方官・使金

  • 施師點は字を聖與といい、上饒の人。10歳で六経に通じ、12歳で文をよくし、太学で常に上位、司業の高宏に「深醇にして古風あり」と評された。廷対を経て臨安府教授となり、乾道元年(1165年)陳康伯の推薦で対上し、恩恵の詔があっても民に恩沢が及んでいない実態を訴え、四等以下・4年以前の逋負の全免を求めて容れられた。
  • 給事中として太子詹事の増員を建言し、金への使者として、相儀者の親王来臨に伴う退位要求を毅然と拒み、班立の位を守った逸話が知られる。金使が「一目で正人と分かる」と評したという。
  • 端明殿学士簽書樞密院事、参知政事兼同知樞密院事として、宰相奏事に執政も意見を述べる慣行を再興させ、周必大と共に上の評価を得た。
  • 州郡の上供督促の早期化案に対し「天下の病となるものは、恨みが速やかでないことにある」と即座に撤回させ、樞密の周必大に「天下の赤子がその毒を被らずに済んだのは公の賜物」と称された。

樞密院知事、蜀の人材登用

  • 淳熙13年(1186年)辞兼同知樞密院事、権提挙国史院・権提挙国朝会要を経て14年(1187年)知樞密院事。蜀の人材を丹念に捜訪し、夹袋に手書で記録し推薦した。
  • 15年(1188年)春、資政殿大学士知泉州、提挙臨安府洞霄宮、紹興2年(1191年)知隆興府江西安撫使。「自分は仕官の升沉にすべて任せ、道を曲げて阿附したことはない。栄達は天命にあり、忠孝こそが自分の事である」と子らに語った。
  • 紹興3年(1192年)薨去、享年69。奏議7巻、制藁8巻、東宮講議5巻、易説4巻、史識5巻、文集8巻がある。