宋史卷三百八十四 列傳第一百四十三 葉衡

出自と地方官時代

  • 葉衡は字を夢錫といい、婺州金華の人。紹興18年(1148年)進士。福州寧徳簿として塩賊捕縛の功で改秩、臨安府於潜県知事として戸籍の弊を九等に整理し貧民を救済、賦税を無理なく徴収した。
  • 常州知事として水害時に倉を開いて粥を施し、疫病流行時には自ら医薬を持って民を巡回した。太府少卿として合肥の圩田開発を建言し、戸部侍郎として塩課の改善策(塩の生産地での統制、塩戸への前渡し金制度など)を献じた。

宰相としての財政・軍政改革

  • 樞密都承旨として馬政の統制策を建言。李垕の直言を評価し登用を推薦。江淮の兵籍の不正を視察させられ、民兵の統制策を実施した。
  • 参知政事として、将帥の適材適所と久任、戸部会子の京会への統一を建言。右丞相兼枢密使となり、孝宗の恢復への意欲に応じ将帥・器械・山川防守について緊密に議論した。
  • 会子の流通不安に対し、上下庫の金銀銅銭900万・内蔵庫500万・蜀中の銭物700万を投じて会子回収を専任され、上から「真の宰相の才」と評された。
  • 上との対話で、周の成王・康王の治世を模範とする議論を交わし、唐の牛李の党争を評した。選人の官改めをめぐって不当な特旨を諫め撤回させた。
  • 司諫の湯邦彦を金への使者に推挙したが、邦彦は葉衡への恨みから客に上を誹る言を漏らし、これが露見して葉衡は罷相・安徳軍節度副使郴州安置となった。邦彦も使命を辱め嶺南に流された。
  • 葉衡は自便・復官を経て享年62で薨去、資政殿学士を贈られた。才知に富み兵事にも詳しく、小官から10年で宰相に至ったが、その抜擢は曽覿によるものと評された。

史論

  • 陳康伯は経済(経世済民)を自任し、事に臨んで明断であった。梁克家は才に優れ識見が遠く、国のために忠を尽くした。汪澈は事を論ずるに忠慤で人材を推挙した。葉義問は直言正色で秦檜の残党を掃除したが、兵事に長じず敵に対し失措した点は、議論に優れながら事功に劣る者と言えよう。葉顒は清倹正直、葉衡は才智に余りあり、いずれも一時の人選であった。