宋史卷三百八十四 列傳第一百四十三 葉顒

出自と地方官時代

  • 葉顒は字を子昂といい、興化軍僊遊の人。紹興元年(1131年)進士及第、広州南海県主簿を経て、盗賊捕縛の功を自らのものとせず部下に譲る廉潔さを見せ、知事の曽開に高く評価された。
  • 信州貴溪県知事の際、経界法の田税を三等でなく九等に分けることを建言し、6邑の模範となった。紹興府上虞県では徭役を民の申告に基づき公正に配分し、租税徴収も民の自主性に任せて円滑に進めた。
  • 帥の曹泳が夏租の前納を強要した際、期限の緩和を求めて怒りを買ったが、結果的に租税徴収が最良となり泳も評価を改めた。常州知事の際、湯思退の兄の家奴の不法を法通りに処断し思退の不興を買った。

尚書・参知政事として

  • 高宗が視師建康の途中、対上して恢復には張浚の起用が必要と論じた。常州知事時代、剰余金の献上を勧められたが「名は羨余、実は横斂であり民の膏血である」と拒んだ。
  • 右司として直言の詔に応じ、手足のごとき至親に州郡の重責を委ねる不当を指摘。吏部侍郎として七司の弊事を条例に整理し、端明殿学士参知政事兼同知枢密院事に進んだ。
  • 武臣・梁俊彦が沙田・蘆場への課税を求めた際、「沙田は水位で変動する土地であり課税に適さない」と論じ、俊彦を切責して撤回させた。御史の林安宅が両淮での鉄銭導入を主張した際も反対し、安宅は逆に葉顒の子の不正献金疑惑を弾劾したが、審理の結果安宅・王伯庠の風聞が誤りと判明し免官・貶謫となった。
  • 知樞密院事、尚書左僕射兼枢密使に進み、汪応辰・王十朋・陳良翰らを推薦。「聖君の人材登用は賢愚姦盗すべてを使いこなすが、行き過ぎを排すべき」と論じ、龍大淵の専権を指摘した。
  • 国用使制度の議論で、養兵の冗費を指摘し「節用は愛民の政であり、生財を求めれば民財を費やすのみ」と説き上の賛同を得た。建康劉源の賄賂疑惑の調査を巡っては「調べる者の姦の方が甚だしいことを恐れる」と諫めて中止させた。
  • 乾道3年(1167年)冬至の郊祀で雷が鳴った異変を機に印綬を上して太平興国宮提挙となり、帰宅後まもなく病なく薨去、享年68。観文殿学士致仕、贈特進、諡は正簡。友人の高登が上書で時の宰相を批判し追捕された際、顒は同僚として密かに逃がした逸話がある。仕官から宰相に至るまで衣食住を変えなかった。