宋史卷三百八十四 列傳第一百四十三 蔣芾

出自と軍政論

  • 蔣芾は字を子礼といい、常州宜興の人。之竒の曾孫。紹興21年(1151年)進士第二人。孝宗即位後、起居郎兼直学士院に累進。宦官梁珂が孝宗の潜邸時代からの縁で権を撓めたのを、尹穡の弾劾に合わせ繳奏で罷免。
  • 簽書枢密院事として辺防の強化と、行伍の中から将才を見出す人材登用策を建言。帰正人を北人の将で統率させる策も献じた。
  • 権参知政事同知国用事として財政論を展開し、「今日の財の最も費えるのは養兵である。太祖が天下を取った時の兵は15万に過ぎなかったが、紹興初年の兵はそれより少なく、今日の方が多い」と述べ、汰兵の際に給付が減らず結果的に浪費が増えている実態を批判。1年半の招兵停止を建言し、上はこれを悟った。
  • 「将来の都督は卿しかいない」との上意に対し、経験不足を理由に辞退。乾道年間、右僕射同中書門下平章事兼枢密使となったが母の病により起復辞退、大挙の是非を問われても慎重な姿勢を貫いた。

晩年

  • 観文殿大学士知紹興府提挙洞霄宮を経て、言者の弾劾で職を落とされ建昌軍に居住。1年後自便を許され、再び洞霄宮を提挙して卒去。
  • 辺事の論で上の信頼を得、10年で宰相位に至ったが、兵事を任せることができず責を受けた。史臣は「論議に優れながら事功に劣る」と評した。