宋史卷三百八十四 列傳第一百四十三 葉義問

出自と諫言

  • 葉義問は字を審言といい、厳州夀昌の人。建炎初年に進士及第、臨安府司理参軍を経て、宰相范宗尹の姦を沈長卿らと弾劾したため饒州教授に左遷。旱害の際、便宜で常平米を放出し民を救済した。
  • 前枢密の徐俯の門僧が罪を犯した際、法に照らして処断し、俯の推挙を袖に入れたまま返した。江寧県知事の際、秦檜の親信を役に就かせようとする周囲の意向に「これを免れれば何をもって他人を服させるのか」と応じ、豫章守の張宗元を陥れようとした漕臣の企てに抵抗した。
  • 檜死後、湯思退の推薦により起用され、殿中侍御史として旧秦檜党の弾劾・復権審査を行った。樞密の湯鵬舉が檜の遺風を継いでいたことを「一檜死して一檜生ず」と弾劾。
  • 侍御史から吏部侍郎兼史館修撰、同知枢密院事に進み、金の南侵の兆候を報告した。

視師の失態と晩年

  • 金主亮の南侵に際し督師を命じられたが、義問は軍旅に疎く、劉錡の捷報にある「生兵」の語の意味を問うなど失態が見られた。鎮江で沙溝・鹿角の防備を試みたが効果なく、建康への急行や無用な往復で市人に嘲られた。
  • 亮の死後撤退し、朝廷に戻って退隠を強く求め罷免された。隆興元年(1163年)、辛次膺が「義問は諸将の統率に失敗し官職を私した」と弾劾し饒州に謫される。乾道元年(1165年)自便を許され、乾道6年(1170年)卒去、享年73。