宋史卷三百八十三 列傳第一百四十二 辛次膺
辛次膺(字は起季、萊州の人、?–1170年、享年79)は政和2年(1112年)進士。地方官として賊の招撫に功をあげ、高宗朝から孝宗朝にかけて秦檜一党や和議派を弾劾し続けた剛直の諫臣。仕官50年、吏議に一度も触れなかったと評される。
年表(3件)
- 政和2年1112年進士に及第した
- 隆興改元1163年同知枢密院事となった
- 乾道6年閏5月1170年卒去、享年79
出自と地方官時代
- 辛次膺は字を起季といい、萊州の人。幼くして孤児となり母方の外家で育ち、王聖美に丹徒で学んだ。政和2年(1112年)進士に及第。単父丞であった時、山東の乱に遭い南渡した。
- 閩の賊・范汝為が建州を陥れる中、宰相呂頤浩は次膺を蒲城の宰として賊の要衝を防がせた。賊将熊志寧が既に邑を焼いていたが、次膺は荊棘の中に座して吏民を安撫し、器械を整え、数か月後に韓世忠が建州を回復した。
- 残党の范黒龍が隣邑を攻める中、郷兵を募って矢を訓練させ、賊を破って首領5人を捕らえ、他は赦した。参政孟庾の推薦で召対し、「用人は実を務め、施令は必行を旨とすべき」と論じた。
高宗朝の諫言
- 右正言として、閲兵を通じ恩威の柄を握り、近習の干政の芽を摘むよう建言。兵連10年で財政が窮迫していることを指摘し、不急の務めを罷め冗官を省くよう求めた。
- 韓世忠の子・直が秘閣に任じられた際、「攻城野戦は世忠の功であり、その子とは無関係」と指摘。金人との和議に際しては「宣和の海上の約、靖康の城下の盟いずれも口の血も乾かぬうちに反故にされた」と警戒を説いた。
- 秦檜の妻兄・王仲薿が二官を叙せられたのを弾劾し、また知撫州の王㬇(檜の妻兄)が官田の租を払わず父仲山も金に屈膝したことを弾劾。国の紀綱に関わる問題として繰り返し論じた。
- 湖南提刑として茶陵の賊・龍淵・李朝を招撫。秦檜は次膺を陥れようとしたが、単騎で茶陵に赴き賊将を討ち、招安策を用いて降伏させ、茶陵を軍とした。
- 金との和議が成った際、その詐略を強く論じ(「父の仇と共に戴天せず、兄弟の仇に武器を反さぬことなし」と)、書は上奏されたが用いられず、金は三京を陥した。次膺は罷免され祠禄となり、秦檜死後まで16年間、貧窮のうちに過ごした。
孝宗朝と晩年
- 檜死後、婺州知事として起用され、母の憂いを訴え辞去。孝宗即位後、召還され「国本(後継者)を早く立てるべき」と奏上、上が「誰が可か」と問うと「子を知るは父に若くなし」と答え、権給事中に抜擢された。
- 御史中丞湯鵬舉の弾劾を受け一時罷免されたが、孝宗が親政すると御史中丞に起用され、成閔の貪欲・湯思退の朋党・葉義問の姦罔を次々弾劾した。
- 隆興改元(1163年)、同知枢密院事。符離の敗戦を予見し諫めていた次膺は、事後、張浚の彈壓には他意なしと弁護した。孝宗は「これは天の大いなる戒めである」と嘆じ、参知政事に拝したが病により辞退。王十朋・湯思退の人事にも意見を述べた。
- 乾道6年(1170年)閏5月、卒去、享年79。孝友清介で、朝廷に立って直言し、仕官50年、吏議に一切引っかからなかった。政治は清静と徳化を先とした。
史論
- 孝宗が恢復に志し張浚を重用した時代、陳俊卿は姦党を斥け公道を明らかにしてこれを佐け、宰相となってからも知る限り言い尽くし、その立志はひとえに先賢に法るものであり、他の宰相の及ぶところではない。
- 虞允文は国に対する忠が丹青のように明らかであった。金主亮の南侵は鋭鋒であり、内外は劉錡を長城と頼んだが病で進めず、允文は儒臣ながら奮って督戦しこれを挫き、亮は自滅した。かつて赤壁の一勝で三国の勢が定まり、淮淝の一勝で南北の勢が定まったように、允文の采石の功によって宋の情勢は危機から安定へ転じた。宰相を罷めて蜀を鎮め、恢復の命を受けて期を定めて出発しようとした志は未だ成らなかったが、その慷慨として重責を任ずる姿は得難いものであった。
- 辛次膺は多くの邪悪を力強く排し言責に背かず、政務に煩わされず節を守り、晩年に再び朝に立ってからもその剛直さは著しかった。南渡以後の直言の臣として、まず第一に挙げるべき人物である。