宋史卷三百八十二 列傳第一百四十一 李彌遜

和議反対の急先鋒

  • 李彌遜、字は似之、蘇州呉県の人。大観3年(1109年)進士、単州司戸・陽穀簿を経て、封事の直言により盧山県知事に左遷、隠居8年を経て知冀州、金軍の河朔侵攻に対し城壁修築・勇士招募で防衛、兀術も城を犯さなかった。
  • 靖康元年(1126年)衛尉少卿、知瑞州、建康府の周徳の乱では単騎で説得にあたり招降を成功させ、李綱と共に首悪50人を誅し残党を撫した。淮南運副、知饒州として、朝廷の安逸を戒め終年の安泰の困難さを説いた。
  • 起居郎として直言を続け、中書舎人として六事(藩維の強化・禁衛の厳格化・練兵・節用・民心収攬・守帥選抜)を上奏、駐蹕未定時の過剰な準備を批判した。
  • 秦檜再相の際、憂色を示し、罷免を求める上疏を重ねたが許されず、趙鼎罷相後の和議推進に対し胡銓の斬檜上疏や范如圭・曽開の抗議に続き、彌遜も金への臣礼が招く危険(無限の要求、忠臣義士の気概の喪失)を力説した。
  • 秦檜に「政府の欠員を埋める」と誘われたが「今日のことに国人は納得していない、辞去あるのみ」と拒絶、檜の怒りを買いながらも屈せず、送伴使の迎合的態度を批判、和議成立時も君臣の礼を巡り抵抗を続けた。
  • 徽猷閣直学士知端州・知漳州を経て隠居、兀術の侵攻を予見していたことが的中した。晩年、時相との書簡を絶ち、磨勘や任子も求めず、国を憂えながらも怨嗟を示さず、紹興23年(1153年)卒した。死後、忠節を称され敷文閣待制を追贈された。奏議3巻・外制2巻・議古3巻・詩10巻がある。

李彌大――使金と剛直な諫言

  • 李彌大、字は似矩(彌遜の弟)、崇寧3年(1104年)進士、大臣の推薦で召対、校書郎・監察御史を経て契丹賀正旦使として燕地帰漢の噂を調査、二つの見方(金の内紛による好機、金の余力による困難)を報告した。
  • 起居郎・試中書舎人同修国史として、童貫の走馬承受白鍔の失態を弾劾し除名させた。知光州・知鄂州・給事中を経て、金軍の大挙侵入時に李綱の城守策の参議となったが意見が合わず罷免、刑部尚書に転じた。
  • 三鎮割譲後の種師道・姚古の援軍に対し、河東西境と陝西の兵を集めて挟撃する策を上奏、河東宣撫副使として活動、張師正の敗戦を誅し、崤澠間で敵を防いだ。
  • 建炎元年(1127年)知淮寧府として叛乱を鎮め、吏部侍郎から知紹興府・戸部尚書兼侍読を歴任、呂頤浩の視師に参謀官として従い、王導・謝安の故事を引いて軽々な出兵に反対、軍正制度の設置も提案したが忤られ知平江府に左遷された。
  • 御史沈与求に弾劾され罷免、知静江府として広西の辺防策を上奏、工部尚書を経て強盗死罪の判決を巡り貶され、紹興10年(1140年)61歳で卒した。

史論

  • 宋の南渡以降、徽宗の梓宮と韋太后の帰還が終始の課題であった中、秦檜が屈己による和議を主導したのに対し、張燾は連署の上奏で深謀遠慮を尽くし、「天に必ずを取る」という言葉に和議を急がぬ姿勢を示した。国讎を忘れたわけではなく、時を待って動いたのであろう。ただその恵政が蜀にのみ及んだことは惜しまれる。
  • 黄中は党派に阿らず明察で敵情を料り、忠実な立朝の姿勢を持ち、退いても君道を忘れなかった。孫道夫は張浚の知遇を得ながら私利を図らず国を憂えた。曽幾は学問と節操を積み重ね、膽を嘗め戈を枕にする覚悟を説いて親征を助けた点は壮とすべきである。
  • 勾濤は直節正論を貫き秦檜の私利を受けず、身を清く保って引退した。李彌遜と曽開は共に和議に反対して廃黜されながらも没するまで怨嗟の心を示さなかった。まさに「大節に臨んで奪うべからず」という言葉に相応しい人物たちである。