宋史卷三百八十一 列傳第一百四十 張闡

和戦論と諫言

  • 張闡、字は大猷、永嘉の人。幼くして力学し、宣和6年(1124年)進士、厳州兵曹掾として方臘の乱に際し義士の督戦を支持し処罰を免れさせた。李回・席益に幕僚として招かれ、洞庭の盗賊討伐では戦艦を用いた奇襲策を建議し功を挙げた。
  • 紹興10年(1140年)給事中林待聘の推薦で対策、金との和議による関中の地の放棄に反対し「関中は天府の要衝、失えば巴蜀の防衛が崩れる」と説いた。監司郡守の推薦制度の弊害、江浙の水害対策としての糴禁緩和も献策した。
  • 祕書省正字・校書郎兼呉益王府教授を経て、諸将の恩賞の乱発と禁旅の弱体化を上疏、祕書郎兼国史院検討官として秦檜の台諫抜擢の誘いを固辞した。
  • 紹興25年(1155年)帝親政の下、提挙両浙路市舶から御史台検法官・吏部員外郎に至り、建王府(後の孝宗)の贊読として重用された。31年(1161年)の水害・盗賊多発に際し、金への歳幣の非、帰正人送還の非、贓吏の誅、蠲租令の実効化を訴え、金主完顔亮の侵攻に備えるべきと説いた。
  • 完顔亮の死後、宗正少卿・工部侍郎兼侍講として孝宗に諸将の虚偽戦功を糾すよう進言、和議の再開に際しては「厳しく使者を遣わし正しい礼を求め、拒まれれば戦うべし」と主張した。
  • 隆興元年(1163年)工部侍郎、張浚の北伐(霊璧県攻略)に際し李顕忠・邵宏淵の孤立を憂い援兵を求めたが失利、世論が戦を非難する中「陛下の受降は正しく、諸将が節度に背いて援なく敗れたのだ」と弁護した。
  • 金の和議要求(唐・鄧・海・泗四州の割譲)に対し「割譲せずして初めて和議が成る」と主張、多くの支持を得た。工部尚書兼侍読として老齢のため辞任を願い出、74歳で卒し端明殿学士を贈られた。
  • 朱熹は「秦檜の敵愾心を利用した専権により忠臣義士の気概が挫かれ、士大夫が安逸に慣れた中、和議に異を唱えたのは胡銓と張闡だけであった」と評した。