宋史卷三百八十一 列傳第一百四十 晏敦復

秦檜との対立

  • 晏敦復、字は景初、丞相晏殊の曽孫。程頤に学び進士に登第、御史台検法官として呂頤浩に忤らい知貴渓県に左遷されたが冤を晴らされ通判臨江軍に復した。
  • 左司諫権給事中として、劉光世の淮西私田交換要求を批判し、岳飛の廉潔さと対比した。吏部侍郎兼詳定一司敕令として渡江後の四選格法を整備、剛厳な人柄で銓選の公正を保った。
  • 給事中として冬至の慶賜の乱発、兵卒の宣帖詐取、太医の免試特権などの不正を厳しく糾弾し、崇寧・大観以来の「暗嬴指揮」の弊害の再来を警戒した。汪伯彦の子の監司登用にも反対した。
  • 彗星出現による求言に応じ、康澄の言を引いて賢士の埋没・四民の転業・上下の癒着・廉恥の喪失・毀誉の混乱・直言の途絶という六つの危機を論じた。宰執が細務に忙殺される弊害も指摘した。
  • 紹興8年(1138年)金の屈辱的な礼を要求する国書に対し、金の真意を疑い妥協すれば無限の要求を招くと警告、秦檜の屈己論に真っ向から反対した。勾龍如淵が檜に台諫の入れ替えを進言すると、敦復は張燾と連署で施廷臣・莫将の躍進を批判し弾劾を求めたが檜は屈しなかった。
  • 胡銓が謫される際、護送の非情な扱いを止めさせ、檜拝相の際には他の朝士が祝う中、独り憂色を示して「姦人が相となった」と語り、後に胡銓の再度の弾劾を予見していたことが証明された。
  • 権吏部尚書兼江淮等路経制使として、宰相への慣例的な見送りを拒否し「人は自ら侮ってから人に侮られる」と語った。寶文閣直学士知衢州、提挙亳州明道宮を経て71歳で卒した。物静かで多弁ではなかったが立朝論事に妥協せず、帝から「鯁峭敢言、祖に恥じぬ」と評された。