宋史卷三百七十九 列傳第一百三十八 曹勛

使金と徽宗の密命

  • 曹勛、字は公顕、陽翟の人。父曹組は睿思殿応制として徽宗に寵愛され、勛は恩により承信郎に補し進士廷試を受けて武吏のまま甲科を得た。靖康初、閤門宣賛舎人として龍徳宮に勤仕し武義大夫となり、徽宗の北遷に従った。
  • 途中、徽宗に「中原の民は康王を推戴しているか」と問われ、翌日「便即真」と書いた御衣を託され、韋賢妃・邢夫人の消息も伝えるよう命じられた。勛は康王のもとへ赴き、清中原の策を悉く実行するよう伝え、太祖の誓約(大臣・言事官を殺さず)も伝えた。燕山から脱出し建炎元年(1127年)7月南京に至り御衣を献上、高宗は涙して輔臣に示した。

使金の継続

  • 死士を航海させ徽宗を東京から迎える策を建議したが執政に阻まれ、9年間昇進できなかった。紹興5年(1135年)江西兵馬副都監となるも、専ら請託に走ると批判され新命を奪われた。
  • 紹興11年(1141年)兀術の和議申し入れに応じ成州団練使として劉光遠を副して報使となり、帰路兀術に高官を派遣するよう求められた。忠州防禦使に遷り、金使蕭毅らの接伴使、容州観察使・報謝副使として金主に懇請を伝え、梓宮・太后の帰還が実現、高居安らの太后護送に接伴使として同行した。
  • 保信軍承宣使・枢密副都承旨を経て、紹興29年(1159年)昭信軍節度使、王倫の副として報謝使となったが、金主完顔亮の侵淮計画を知らず「隣国恭順」と報告した。孝宗朝で太尉・提挙皇城司・開府儀同三司に至り、淳熙元年(1174年)卒、少保を贈られた。