出自と初任
- 胡松年、字は茂老、海州懐仁の人。幼くして父を失い、母が機織りで生計を立て学問をさせた。政和2年(1112年)上舎釈褐で濰州教授に補せられ、政和8年(1118年)便殿での対策で徽宗に容貌を賞され校書郎兼資善堂賛読、殿試参詳官として沈晦を首席に選んだ。
- 中書舎人となり、燕雲攻略に危惧を表明。建炎年間、中原の利害を密奏、知平江府として弊政十七事を都市に掲示して民を利し、徽猷閣待制に加えられ防江利害三条を奏した。
紹興の建言と使金
- 中書舎人として、諸要地に水戦士を配備する策を献じた。唐恪の観文殿学士復職に反対し、靖康の禍の首罪と主張、秦檜の讒言による褒贈の不当も指摘した。
- 給事中として将帥選抜の重要性を論じ、給事中在任中に王倫の使金報告を受け、松年は工部尚書として韓肖胄の副使に任じられ大金奉表通問使となった。汴京で劉豫が臣礼を求めたが松年は毅然と応じなかった。
- 帰国後吏部尚書、岳飛の襄漢収復に際し守禦策を献策、班師を進言。戦艦の四利を論じ、端明殿学士僉書枢密院事として八事を上奏(規模の確立・紀綱の振粛・将帥の統御・士卒の激励・毀誉の察知・虚文の廃止等)。張敵万を薦挙した。
- 劉豫の登萊・海密での準備を警戒し、韓世忠・劉光世・岳飛の連携不足を指摘、精兵を建康に集め諸軍を統括する策を奏した。
- 帝の親征に従い平江に至り、参知政事権知として戦艦の整備を担当(張浚は軍器を担当)、「議論定まらば直ちに実行すべし」と述べた。
- 病により洞霄宮提挙となり陽羨に隠棲するも和糴・科斂・防秋の利害を上奏し続けた。紹興16年(1146年)病革の際「大化推移、免れ得ぬ」と語り卒、年60歳。
- 人柄は蓄財を好まず、俸禄以外を求めず、秦檜の専権時代も阿らず、死に至るまで一書も通じなかったことが世に高く評価された。