出自と地方軍事での活躍
- 胡舜陟、字は汝明。徽州績溪の人。大観3年進士。監察御史として、崇寧以来南台御史が言事しなくなった慣行の是正を求め、内艱に服した後も同職に復帰し河北の金兵撤退後もなお防禦を怠るべきでないと上言。欽宗即位後、帰明官趙良嗣(対金外交で辺患を招いた者)の誅殺を求めこれが実現した。文武の将帥人材の推挙、台諫の上殿順序(台を先に諫を後に)などを提言。
- 侍御史として、皇太子の教育に孝経・論語に加え孟子を読ませるべきとし、涪陵の譙定(邵雍門下、易学・諸葛亮八陣法に精通)の招聘を提案。高宗即位後、宰相李綱の罪を論じたが逆に偽廷(張邦昌政権)に仕えた前歴を言者に指摘された。
- 集英殿修撰知廬州として、淮西の盗賊蔓延の中、城を修め戦具を整え民心を安定させた。雲騎卒孫琪(「一海蝦」と号す)の攻撃に対し、資糧提供の要求を拒み示弱を避け、時に出兵して抄掠を撃退し琪は夜逃げした。僧劉文舜の反乱、丁進・李勝の合流勢力、張遇の襲撃にもそれぞれ効果的な戦術(伏兵、竹里橋の破壊)で対応し撃退した。
淮西での防衛と晩年の冤罪
- 江北防衛のため自ら守ることを願い出て徽猷閣待制淮西制置使に抜擢。范瓊の脅迫的な要求にも逆順の理を説いて退けた。廬州守備2年、按堵如故(平穏維持)を保った。徽猷閣待制知建康府沿江都制置使、知臨安府、京畿数路宣撫使を歴任後、廬夀鎮撫使・淮西安撫使として潰兵王全の投降を受け入れ流民に財と粟を分配した。
- 知静江府として市戦馬を措置。御史中丞常同に「兇暴傾険」と弾劾され罷免。18年後、広西経略・知邕州に復すが、俞儋の贓罪を巡り運副呂源との旧怨から告発され(源が受金・盗馬・訕謗朝政と秦檜に讒訴)、大理寺官による審問の末、獄中で死去。妻江氏の訴えで再調査した洪元英は「受金・盗馬の件は曖昧だが、その得た人心は古の循吏に劣らない」と評した。高宗は「舜陟は罪が死に値せず、勘官を懲らしめるべき」と述べ、担当官を吏部に送った。