出自と剛直な人柄
- 潘良貴、字は子賎。婺州金華の人。上舎釈褐で辟雍博士、秘書郎。宰相蔡京・その子攸が名士を爵禄で誘おうとした際、良貴は毅然として拒絶した。主客郎中、淮南東路常平提挙、靖康元年召還。欽宗の下問に対し何㮚・唐恪ら4人は宰相にふさわしくないと直言し、当国者の不興を買い信州汭口の排岸に左遷された。
言論官としての活動と辞退の精神
- 高宗即位後、左司諫として叛命者の処罰、宗室の山東河北への封建、維揚廵幸中の養兵などを主張したが黄潜善・汪伯彦に忌まれ工部に転じられた。提点荊湖南路刑獄などを経て左司。宰相呂頤浩が両省官への引き立てを内々に持ちかけた際、「宰相は賢を見て自ら擢用すべきで、内密に恩を売るようなことをすれば士大夫が籠絡されて朝廷に立てなくなる」と正色で断った。
- 直龍図閣知厳州、中書舎人。戸部侍郎向子諲の煩雑な発言を殿上で厲声で制止した一件で、高宗の顧問を巡り対応に問題があったとして待罪となったが、良貴のみ罪を得た。集英殿修撰提挙江州太平観、知明州、徽猷閣待制提挙亳州明道宮を経て10年不出仕。李光の罪に連座し嘗て通書したことで二官降格。享年57で卒。
- 剛介清苦な人柄で、若い頃、王黼・張邦昌がともに娘を娶わせようとしたが拒絶した。晩年家居は貧しく、秦檜が郡職を求めるよう勧めたが、「従臣の除授は辞退が慣例。それを宰相に求め君父に辞するのは私にはできない」と断った。諫疏の多くは焼失したが一部が残り、朱熹が序を書いた。