出自と言論官としての活動
- 魏矼、字は邦達。和州歴陽の人。唐の丞相魏知古の後裔。若くして頴悟、王氏新説が流行する中、独自の学問を守った。宣和2年上舎及第。紹興元年樞密院計議官、考功郎。星変に際し、宋の賞罰の不公平を指摘(未参選で朝官に、未経任で正郎になった者、不当に衝替された者、罰の軽重の不均衡)、監察御史・殿中侍御史に抜擢された。
- 臨安の大火を機に、春秋の故事(孔子の徳を魯が用いず季孫の悪を除けなかった故事)に例え、朝廷の姦慝・朋附奔競を除き有徳の士を登用すべきと論じた。内侍李廙が韓世忠邸で人を傷つけた事件を厳しく問い、内侍が主兵官と交通することを禁じるべきと上奏、廙は杖脊配瓊州に処された。
- 侍御史として朱勝非の独相を批判し五罪を上奏、勝非は服喪に付された。国家の命令が録黄(正規の手続き)を経ずに降される慣行を批判し旧制の遵守を求めた。
淮上での調停と晩年
- 劉豫が金人を率いて侵攻した際、趙鼎の親征決定に扈従し江上諸軍の督戦を命じられた。劉光世・韓世忠・張俊の三大将が権勢均衡で私隙を抱え協力していなかったため、魏矼は光世軍を諭して「賊は多く我は少ない、力を合わせねば支えきれない」と説き、二帥に書を交換させて協力体制を築かせ、これにより戦況が好転した。
- 魏良臣・王倫の金からの帰還報告で恐喝的な言辞があったことを受け、講和の二字を禁じ攻取を厲行すべきと請願。秘書少監に転じ、7閲月で120余章の上奏を行った。直龍図閣知泉州、知建州、権吏部侍郎を経て、紹興8年、金使の館伴使として派遣された際、秦檜に和議不賛成の理由を問われ「相公は誠を以て敵に対すというが、敵が誠を以て相公に対すか疑わしい」と応じ、檜を屈服させられなかった。
- 金使の入境に際する対応を問われ、蜀の劉豫の傀儡性を挙げ屈辱的な譲歩を戒め、大将らの意見を広く聴取すべきと説いた。父の喪、免喪後は集英殿修撰知宣州を辞し提挙太平興国宮、以後4任の祠禄を経て内艱により卒した。