出自と苗劉の乱での説得工作
- 馮康国、字は元通。もとの名は轓。遂寧府の人。太学生として気節を負う。建炎中、高宗が杭州に次いだ際、礼部侍郎張浚のもとで、苗傅・劉正彦の乱を鎮めるため弁士を求められ自ら志願した。
- 苗傅・劉正彦に対し「宦官政治の根絶は国家のため功績だが、幼君への譲位は天下の批判を招く」と説得。傅は剣に手をかけ怒ったが轓は屈せず、正彦がなだめた。以後も浚の書を伝えて復辟を促し、危険な場面(拘留の危機)を乗り越えて交渉を続け、最終的に朱勝非を通じて「淵聖皇帝を主とし、睿聖皇帝は大元帥に復し、少主は皇太姪、太后は垂簾」の方案で合意させた。傅・正彦には趙普の故事に倣い鉄券を賜ることも提案し実現させた。
張浚のもとでの活動と晩年
- 功により奉議郎守兵部員外郎、五品服を賜り、康国と改名。反正後、張浚の川陝宣撫に従い機宜文字を主管、荊湖宣諭使として自らの判断で制書を作成し越権を弾劾され二等降格。紹興3年、張浚とともに召還されるが、浚の失脚に連座し萬州湖北転運判官に左遷。
- 四川の税制(正税の軽重に応じた科折の均衡)が近年崩れていることを指摘し旧法復帰を建議、詔してこれに従わせた。呉玠軍への糧秣供給の合理化(陸運負担の軽減、屯田の活用)を提案。趙鼎が高宗に「浚が去った後、蜀に残る士は不安を感じている」と述べた際、高宗は「朝廷の用人は才の有無のみを見るべきで、朋党論で一律に処すべきではない」と応じた逸話が記される。右司員外郎、直顕謨閣知夔州を経て、母の喪に起復し呉玠軍の撫諭、都大主管川陝茶馬にて卒。
史論
- 鄧肅・李邴・滕康は危急存亡の秋にあってみな侃侃として正色を保ち、言うべきを言わないことがなかった。張守の議論は明達で遠見があり、富直柔は秦檜・呂頤浩に阻まれ不遇であった。馮康国は二つの凶徒(苗傅・劉正彦)を説き伏せ、いずれも有用の才であった。