宋史卷三百七十五 列傳第一百三十四 富直柔

出自と朝廷での言動

  • 富直柔、字は季申。宰相富弼の孫。父の任により補官。若くして敏悟で才名があった。晁説之に文を評され推薦、召され同進士出身を賜る。張浚の推薦で著作佐郎・礼部員外郎・起居舎人・右諫議大夫を歴任。范致虚の復用に反対、給事中として医官王継先の不当な官位換算を論駁し、上は「これは朕の意で出したものだが直言に屈した」と認めた。
  • 紹興4年御史中丞。右司侯延慶を罷免してその代わりに人事を薦めることは台諫の職掌を超えるとし、自らの提案を撤回する形で公正さを保った。端明殿学士簽書枢密院事に除され、旧例にない員外郎からの登用として制度の先例となった。
  • 隆祐太后の冊礼を巡る議論で、太后の廃斥はもと章惇・蔡京によるもので二聖の過ではないとし、上皇(徽宗)の意向にも沿うことを説いた。虞縣丞婁寅亮の上書(太祖の子孫の中から賢徳の者を選び親王とすべきとの提案)を評価し薦めた。後に孝宗が普安郡王に立てられたのはこの寅亮の言に由来する。同知枢密院事に至る。

晩年

  • 侍御史沈与求に、辛道宗・永宗兄弟の登用を助けたと弾劾され、また薦挙した韓璜も連座した。呂頤浩を批判したことで頤浩・秦檜双方の忌みを受け、二人ともに罷免された(璜は潯州酒税監督に、直柔は洞霄宮提挙に)。紹興6年、母の喪に起復し資政殿学士知鎮江府となるが赴かず、知衢州、失入死罪の罪で落職。復官後は山沢に遊び蘇遅・葉夢得らと交わって寿を終えた。