宋史卷三百七十五 列傳第一百三十四 張守
張守、字は子固。常州晋陵の人。直言をもって知られる諫言官で、参知政事にまで至った。晩年は秦檜との軋轢の中でも自説を曲げなかった。諡は文靖。
出自と諫言官としての活動
- 張守、字は子固。常州晋陵の人。家貧しく書を人から借りて読み一度見れば忘れなかった。崇寧元年進士、詞学兼茂科。監察御史から高宗に従い揚州に赴く。建炎2年、金将黏罕が東平から泗淮を経て行在に迫った際、宰臣汪伯彦・黄潜善は李成の残党程度と軽視したが、張守は上防淮渡江利害六事を上疏し、金人が淮甸を犯す四路を挙げ帥守の選定と兵備・儲粟を求めた。二相の不興を買い、金城撫諭の任に出された。
- 建炎3年、金軍渡淮の予測が的中し起居郎兼直学士院に除された。苗劉の乱平定後、百官表奏を李邴と分担して起草。宰相朱勝非の危機管理不足を批判する疏は留められたが、まもなく勝非は罷免。呂頤浩が三省合併を提議した際、司馬光の旧説に基づき合議より断行を主張、実現した。
幸蜀反対論と直言
- 呂頤浩・張浚が武昌遷幸・張浚の四川赴任を議した際、滕康とともに強く反対し「東南は今日の根本」「陝西人が多い将士が蜀を機に西帰を図る恐れ」を説き、十害を挙げて死を賭して争う覚悟を示した。
- 副端(御史副長官)時代の上疏で「陛下が宮室の安に居るとき二帝母后の穹廬毳幕の住まいを思い、膳羞を享けるとき二帝母后の羶肉酪漿を思い……」と対句形式で徽欽二帝への哀悼と自省を促す長い諫言を行った。のちにも同様の趣旨を繰り返し、罪己の詔が繰り返されても実効がないことを批判し、宰相の器量不足を指摘して文武全才の登用を求めた。
- 呂頤浩の独任・張浚の西行に異を唱えたことで上の意に反し外任を求めたが、上は正人の軽々な放逐を戒め呂頤浩を通じて留任を促した。殿中侍御史趙鼎が張守の不当な左遷を弁護し、翰林学士知制誥、端明殿学士同簽書枢密院事に至る。
- 知福州として福州城の拡張要求を却下し(晋太康3年の旧規模と偽閩期の拡張を踏まえ民力回復を優先)、度牒の売却で銭100万余緡を国用に充てた。劉豫が金を導いて淮上を侵した際、投降者を「陛下の赤子」として恩信で扱うよう上疏。金軍撤退後の追撃に対しても慎重論を唱えた。
参知政事としての施策と晩年
- 帰還後の対策として攻戦・守備・綏懐・措置の四事を問われ、措置こそ急務とし、軍旅(三路への分屯、神武中軍の行在専衛)と糧食(両浙・江西・荊湖からの分担供給)の具体策を献じた。
- 閩地方官として范汝為の乱の後遺症に対応し、福州の常平緡銭15万を免除。紹興6年参知政事、7年張浚が劉光世の兵権を奪い呂祉を淮西に派遣する策に反対したが浚は聞かず、酈瓊の変(部隊の叛乱)を招いた。台諫が張浚を弾劾すると張守はこれを弁護、浚は永州に謫された。
- 建康を「別都」として恢復の拠点とすべきと上疏したが趙鼎に退けられ、資政殿大学士知婺州・洪州兼江南西路安撫使。江西の盗賊鎮定に徳政を先とする策を進言し実行、数ヶ月で平定。三使者(財賦括出のため派遣)の苛斂を上言し追還させた。
- 秦檜執政下で不安を感じ祠禄に退くが、建康守帥として再登用され数ヶ月で薨去。かつて秦檜を推薦した経緯があり、同僚として仕えた際「私はかつて公を誤らせた」と述べた逸話がある。江右在任中の和買・和糴に関する上疏に対し、秦檜が「張守は何と国を損なうことを言うのか」と怒ったのに対し、張守は「彼が国を損なうというものこそ実は国を益するのだ」と嘆じた。諡は文靖。孫の張抑は戸部侍郎。