宋史卷三百七十五 列傳第一百三十四 李邴
李邴、字は漢老。済州任城県の人。翰林学士を務め、苗劉の乱の際は詔書起草に深く関わった。紹興5年には戦陣・守備・措画・綏懐の五策を献策した。晩年は泉州に閑居し享年62で薨去、諡は文敏。
出自と朝廷での職歴
- 李邴、字は漢老。済州任城県の人。崇寧5年進士。起居舎人・試中書舍人を経て、北方用兵の論功行賞で命辞(辞令)作成に留難なく対応し、給事中同修国史兼直学士院、翰林学士に至る。徽宗の禁中曲宴で賦詩を命じられ、高麗使への詩を徽宗が使者に伝録させた逸話がある。
- 言者の弾劾で南京鴻慶宮提挙に落ちる。欽宗即位後、徽猷閣待制知越州。再落職ののち、高宗即位で徽猷閣待制、翌年兵部侍郎兼直学士院。苗傅・劉正彦が高宗に退位を迫った際、詔書起草を求められた李邴は御札を得てからと慎重を期し、朱勝非の懇請で都堂にて起草した。
苗劉の乱鎮定への関与
- 苗傅に対面して逆順禍福の理を説き、殿帥王元に禁旅による討伐を密かに勧めたが元は用いなかった。政事堂で朱勝非に王世修(傅の党)の面前で大義をもって責め、危険を顧みなかった。御史中丞鄭瑴が睿聖皇帝の改号に反対する疏を上げると、李邴・鄭瑴はともに端明殿学士同簽書枢密院事となった。李邴と張守は百官章奏の三奏三答、太后手詔、復辟赦文を一日で仕上げた。
- 尚書右丞・参知政事を歴任。太后が豫章へ赴く際、資政殿学士権知行台三省枢密院事となったが、呂頤浩との意見対立で辞任。知平江府在任中、兄李鄴が越州失守で連座し落職。紹興5年、詔に応じ戦陣・守備・措画・綏懐の五策各五事を献策。
紹興五年の献策
- 戦陣の利五事: 輕兵を出し遠略を務め将帥に功を委ね重賞格を定めること、関陝と淮南の重視、大将が握る重兵の他に牛臯・王進・楊珪・史康明ら京東出身の偏裨に別部隊を持たせること、大将の権を分散させず成算を授けるにとどめること、賞格を予め定めること。
- 守備の宜五事: 江浙を根本としつつ進取の利を失わないこと、海船700隻の期日通りの完成、古の伏波・下瀬・楼船の官制を倣った水軍の常設、長江数千里の防備の要所選定と屯軍配置、竒策の準備(吳人疑城の故事)。
- 措画の方五事: 秋冬の大閲、禁衛の補充、軍制の整備、使事の規定、勅榜の頒布。金との和好は恃みがたいが二聖の存在を無視できないため、行人(使者)の任を専任させることを提案。劉豫の僭逆の罪を勅榜で明らかにし、江北士民に諭すことを求めた。
- 綏懐の略五事: 徳意の宣布、先んじて振恤すること、関津の開放、材能ある者の派遣、寛貸の実施。山東の大姓が山砦に拠って自保している状況を踏まえ、淮北の遺民の帰還を招くための船・地・生活支援の措置を細かく提案。
- 李邴は閑居17年、泉州で薨去。享年62、諡は文敏。草堂集100巻がある。