宋史卷三百七十一 列傳一百三十 白時中・徐處仁・馮澥・王倫・宇文虚中・湯思退

白時中

  • 字は蒙亨、寿春の人。進士第に登り累官して吏部侍郎となるが、事に坐して降格し鄆州を知り、のち再び召し用いられた。
  • 政和6年、尚書右丞・中書門下侍郎を拝す。宣和6年、特進太宰兼門下を除せられ崇国公に封じられ、慶国に進む。
  • 時中はかつて春官(礼部)にあり、天下から奏上される祥瑞を編類する詔を受け、文字で尽くせぬものは図絵で進上した。時中は『政和瑞応記』およびその賛を進呈し、太宰として翔鶴・霞光などの慶事を賀する表を上げ、圜丘の礼が成った際には「休気の充応は前代未曾有」と上言し秘書省への宣付を乞うた。
  • 当時、燕山は日々危急を告げていたが時中は平然としてこれを憂えなかった。金人が京城を攻め守備を修めようとした際、時中は宇文粋中に「万事は経験がなければならぬ、あなたがかつて守城を目撃していなければ我々にはその始終がわからぬ」と語った。
  • 欽宗即位に際し、大臣を召して京師守備の策を決させ、誰を将とすべきか問うと、李綱は「朝廷が高い爵禄で大臣を養うのは、まさに有事の際に用いるためである。時中らは書生とはいえ将士を撫して敵鋒に抗するのはその職責のはずだ」と述べた。
  • 時中はかっとなって「李綱は兵を率いて出戦できるのか」と問い、綱は「陛下がお命じになれば死を以て報いる」と答えた。これにより綱は右丞・守禦使に充てられた。時中はまもなく罷され観文殿学士・中太一宮使となる。御史が時中の臆病無能を弾劾し、詔で職を落とされ、まもなく卒去した。

徐處仁

  • 字は択之、応天府穀熟県の人。進士甲科に中り、永州東安県令となる。蛮人が叛くと処仁は峒に入り恩信を示し、蛮人は感泣して二度と反しないと誓った。
  • 済州金郷県を知り、推薦により召見された。徽宗が京東の歳事を問うと処仁は旱蝗の被害を答え、邑に盗賊がいるかと問われ「あります」と答えると、帝は処仁が偽らないことを評価し、宗正寺丞・太常博士を除せられた。
  • 当時初めて算学を置き祖とすべき人物を議し、ある者は孔子が『易』を賛じ数を知ったことを挙げたが、処仁は「孔子の道はあらゆることを備えており専門家に比すべきでない、黄帝が日を迎え策を推したのが数の始まりであり黄帝を祖とすべきだ」と述べ、監察御史に擢される。殿中右正言・給事中に遷り、開封府の裁決を代行し流れるように処理して囚人が常に空になるほどであった。
  • 戸部尚書に進み、続いて中大夫尚書右丞を拝す。母の喪に服し、喪を終えて資政殿学士知青州となり永興軍に転じる。童貫が陝西で物価の平準化を図ろうとした際、処仁は「この令が一度伝われば商人は動かず蓄蔵者は出さなくなり、平価と称して却って価格を上げることになる」と反対した。
  • 転運使は貫の意向に阿り、処仁が徳音を無視し異論を唱え使者を侮辱したとして弾劾し、処仁は闕に召され、まもなく知河陽に改まり、職を落とされ知蘄州となる。しばらくして顕謨閣直学士知潁昌府となる。宮掖に罪を得た者が恩赦にあずかれなかったことを処仁は上奏し、童貫はこれに乗じて処仁を陥れその職を奪い鴻慶宮提挙とした。
  • 延康殿学士知汝州に復し、再び鴻慶祠を奉じ、知徐州から召されて醴泉観使となる。徽宗が天下の事を尋ねると処仁は「天下の大勢は兵と民にあります、今水旱の後で賦役が重く公私は疲弊し兵民ともに困窮しています、今のうちに対策を講じなければ後には手に負えなくなるでしょう」と答え、帝は「そなた以外からこの言葉を聞いたことはない」と述べた。
  • 翌日侍読を除せられ進読の際に前の話を持ち出すと、処仁は「昔、周は冢宰が一年の終わりに国用を制した、朝廷でも一年の財用の数を集め入るを量って出るを為し浮費を節し横斂を罷めるべきだ、百姓が足りれば軍儲は必ず豊かになる」と述べ、帝は称賛した。裕民局が置かれ振兵裕民の法を討論することとなったが、蔡京は快く思わず、言者は「今『裕民』と名付けた局を設けるとは、平生民を裕にしていなかったということか」と述べ局は廃された。
  • 処仁は揚州を知ることとなるが、まもなく病により祠に付され南都に帰る。方臘の乱の際、処仁は急ぎ留守薛昂に会い守戦の策を画し「睢陽は江淮を蔽り遮る、国家受命の地である、もし非常事態あらば私は君と死守を助けよう」と語った。この言葉は朝廷に伝わり応天尹に起用された。
  • 河北で盗が起こると大名尹に転じる。前尹王革は惨酷で臆病、盗の軽重を問わずことごとく死罪とし、少しの警報でも城を閉ざし兵で自衛した。処仁は着任するとすぐ城門を大きく開け牙内の甲兵を撤し、人心はようやく安んじた。
  • 徽宗は手詔を賜い「金人は約和したとはいえ狼子野心で変を扇動しやすい、事あればただちに報告せよ」と述べた。処仁は辺境防衛と金への対策10策を上奏、観文殿学士に進み宝籙宮使に召され、特に大学士に陞る(旧制では大観文は宰相でなければ除せられないが、前二府がこれを得たのは処仁が初めてであった)。
  • 欽宗即位、金人が京師を犯すと処仁は糧を蓄え備えを整え精鋭1万を勤王に集め、親征の詔を出し国威を張ることを乞う上奏をした。朝廷にはちょうどこの時親征の詔書が下り、李綱が行営使とされたところであり、処仁は綱に書を送り備禦の方略を語った。
  • 金人が講和を請うて帰ると、処仁は濬・滑に伏兵しその渡河半ばを撃てば必ず成功すると上奏。中書侍郎に召され、入見した欽宗が三鎮割譲について問うと処仁は「国が強くなければ侵陵されよう、まして定武は陛下の潜藩の地、これを棄ててはならない」と答え、呉敏の意見と合致した。敏は処仁を宰相に推薦し、太宰兼門下侍郎を拝す。
  • 童貫が勝捷軍を率いて徽宗の東廵に随行、貫が貶められると軍士に不穏な言があり、徽宗が還御しようとすると都人は動揺し備えを求める声もあったが、処仁は「陛下は仁孝により朝夕の礼を尽くしたいと思われている、御車が西から遷るのは天下の大慶であり郊迎して祝賀すべきだ、軍士の妄言は私が責任を持つ」と述べ、処仁を扈駕礼儀使として禁旅を率いて郊外へ出迎えさせ二聖を宮に還らせると、隊列は粛然としていた。
  • 初め処仁は右丞として「六曹の長貳は皆いずれ執政に選ばれる人材でありながら、部中の事は何も自ら可否を決めずすべて朝廷の命に禀ぐ。人の才力に極端な差はないはずで、一職も決められない者が後に共に政をなせるだろうか。今後、尚書侍郎は事を安易に他へ任せず、条があれば条で決し、例があれば例で決し、条例がなければ情に酌んで裁決し、決められないものは尚書省に申すべきだ」と述べたが、処仁が喪に服したため実行に至らなかった。国政を担う立場になってから遂にこれを奏行した。
  • 聶山が戸部尚書兼開封尹となった際、庫に美珠があり、山は寧徳宮の宦者に密かに語り特旨でこれを取らせようとした。処仁は「陛下は近年の患いに鑑み事は必ず三省を経るべきとされたのに、今『珠は道君太上皇后の寿誠のための些細な美事』として、この端緒を一度開けば以前の応奉の徒が再び放縦になる、陛下のために惜しむ」と上奏し、主蔵吏の罪に問うた。
  • 処仁の議論は初め呉敏・李綱と合致していたが、まもなく異論も生じ、かつて敏と事を争い筆を投げて敏の顔・鼻・額を黒くしたことがあった。唐恪・耿南仲・聶山は二人を排除して代わろうとし、言者を諷して弾劾させ、処仁は敏とともに罷され観文殿大学士・中太一宮使となる。まもなく知東平府・崇福宮提挙となる。
  • 高宗即位に伴い大名尹北道都総管として起用され、郡で卒去した。処仁は宣和年間、しばしば民力の緩和を請い盗賊を弭めることを求め、大名尹としては剛廉で称された。首相となってからは大きな献策はなかったが、金人が境を出て社稷が再び安んじられたのは聖徳の倹勤による天人の助けであると進言した。
  • 种師道が諸道の兵を合わせ河陽の諸州に屯し防秋の計とすることを請うたが、処仁は「金人が再び来るだろうか、先に自ら騒いで弱さを示すべきでない」と述べた。南都が包囲された際、処仁は囲城の中におり、都人は姦細と指弾し、その長子庚と幼子で吏部侍郎の度を殺した。

馮澥

  • 字は長源、普州安岳の人。父の山は熙寧末年に秘書丞・通判梓州となり、鄧綰が台官に推薦したが応じず、20年間隠棲、范祖禹が朝廷に推薦し官は祠部郎中で終えた。
  • 澥は進士第に登り歴官して入朝、言事により2度謫される。靖康元年、澥は左諫議大夫となる。金人が太原を包囲すると朝廷は李綱に両河を宣撫させることとしたが、澥はこれを罷めることを上奏した。金人が三鎮の割譲を求め、高宗が康邸から出て使者に赴くと、澥は知枢密院事充副使を除せられたが赴任せず、まもなく尚書左丞を除せられた。
  • 金人が闕を犯すと宗室の郡王を報謝使とする詔があり、澥は曹輔とともに枢密の副として金営に3日留まり帰った。詔で暫く門下侍郎を権行させられた。欽宗が金営に赴くと澥は扈従した。張邦昌が僭位すると澥と旧知の関係にあったため取り立て、澥が康邸の旧臣であることから奉迎使、続いて総領迎駕儀物使を任じた。
  • 建炎初年、資政殿学士知潼州府を除せられるが、言者が澥がかつて偽命に汚れたと論じ職を奪われた。まもなく官に復し、紹興3年、資政殿学士として致仕し卒去した。
  • 澥の文章は蘇軾を師とし、西方の事を論じて蔡京と対立した。郡人張庭堅が言事により象州へ左遷され死ぬと妻子は流離したが、澥は力を尽くしてその家を助けた。諫省に入ると子1人に官を授かったが、議論は熙豊・紹聖を主とし鄒浩・李綱・楊時を排したため、君子はこれを軽んじた。

王倫

  • 字は正道、莘県の人。文正公王旦の弟王朂の元孫。家は貧しく行いは定まらず任侠を為し、京洛の間を往来してしばしば法を犯したが幸い罪を免れていた。
  • 汴京が陥落した際、欽宗が宣徳門に御し都人が喧呼して止まなかった。倫は勢いに乗じて直接御前に進み「臣がこれを鎮められます」と述べ、欽宗は帯びていた夏国の宝剣を解いて賜った。倫は「臣にはまだ官職がありません、それでどうして鎮められましょう」と述べ自らの才を推薦。欽宗は紙片に「王倫は兵部侍郎に除すべし」と書いた。倫は楼を下り悪少数人を伴い旨を伝えて撫定すると、都人はようやく静まった。宰相何㮚は倫が小人で功もなく除命が急すぎると考え、修職郎補として斥け用いなかった。
  • 建炎元年、専対(対応)に長けた者を選んで金に使わし両宮の起居を問わせることとなり、倫は朝奉郎・仮刑部侍郎充大金通問使に遷り、閤門舎人朱弁が副となった。金の左副元帥宗維と議事するが、金は倫を留めて帰さなかった。
  • 商人陳忠が密かに倫に二帝が黄龍府にあることを告げると、倫は弁・洪皓とともに忠に金品を持たせ黄龍府へ密かに意を通じさせ、これにより両宮は初めて高宗がすでに即位していたことを知った。
  • しばらくして粘罕は烏陵思謀を駅に遣わし倫に会わせ契丹時代の事に及ぶと、倫は「海上の盟は両国が兄弟の約束を万世に変えぬこととした、雲中の役で我が国は実際に軍糧を提供しその功を助けた、上国の臣がかつて南に兵を挙げようとしたが先の大聖はその盟好を重んじ許さなかった、その後兵を挙げて我が国に禍したのは果たして先の大聖の意にかなうものか、そもそも古来南北は自ずと分かれるもの、主上は勤勉で英俊を並び用い必ず古を復すことを期している、久遠の謀を思うべきであり、我らの二帝と太母を帰し我らの土疆を復せば南北の民に塗炭の苦しみを与えずに済み、先の大聖の霊を慰めるにも足るだろう、どうか執事の方々にこれを進言してほしい」と述べた。
  • 思謀は熟考して「あなたの言うことは正しい、帰ったら必ず伝えよう」と述べ、まもなく粘罕が至り「先ごろ上国が使者を遣わし問うたが、意図を多くは答えられなかった、思謀が侍郎の言葉として和議を伝えたが、これは決して江南の実情ではなく侍郎個人の言葉に過ぎまい」と述べた。倫は「使いの事には指図がある、そうでなければ来た意味がない、人が定まれば天に勝ち、天が定まれば人に勝つこともある、元帥はどうか察していただきたい」と答え、粘罕は答えなかった。
  • 以後、宇文虚中・魏行可・洪皓・崔縦・張卲が相次いで使者として入り、皆拘留された。紹興2年、粘罕が突然館に自ら来て倫と和議を議し、倫を帰して報告させた。
  • この秋、倫は臨安に至り入対して金人の情勢と偽装を詳しく述べ、帝は優遇し奨めた。右文殿修撰・主管万寿観に除せられ弟2人・姪1人にも官を授ける。当時劉豫討伐のため用兵中で、和議は保留となった。
  • 3年、韓肖胃が金への使いから帰ると金は李永寿・王詡を続けて遣わし、この二人は驕慢であったため倫を伴使とし、倫は雲中時代の旧知であるため驕慢さがやや薄れ、詔を受け事を終えた。倫は再び祠を請う。劉光世が倫を参議軍事に求めたが辞退した。
  • 宰相趙鼎は倫を都堂に召し禀議させたが、倫の進取の策は意見が合わず、再び祠を請う。7年春、徽宗と寧徳后の訃報が至ると、倫は再び徽猷閣待制・仮直学士充迎奉梓宮使に任じられ、朝請郎高公繪がこれを副した。
  • 出発に際し、帝は倫に金の左副元帥昌に「河南の地は上国が既に領有していない、劉豫に付するくらいなら我らに帰した方がよい」と伝えさせた。倫は詔を奉じて赴き、太后・欽宗にそれぞれ黄金200両を献上し、宇文虚中・朱弁・孫傅・張叔夜の金国にある家族に金帛を賜った。
  • 倫が睢陽に至ると劉豫がこれを館し、他の意図があると疑い文書で国書の提出を求めた。倫は「国書は金主に直接面納すべきもの、使命はただ梓宮の祈請である」と答え、豫は強要し続けた。迎えの使者が至り、河を渡って涿州で撻懶に会い、豫が国書を無理に求めたことを詳しく述べ、豫がすでに本朝を裏切っているなら他日大国をも裏切りかねないと語った。
  • この年冬、劉豫は廃され、倫と高公繪は帰る。左副元帥昌は倫らを送りながら「江南に良い報告をせよ、これより道は塞がれず和議は平らかに達せられよう」と述べた。
  • 倫は入対し、金人が梓宮と太后の返還を許し、さらに河南の地も帰すことを許したこと、劉豫廃立の謀はすでに自分が発したことを述べ、帝は大いに喜び特別の賜物をした。初め倫が昌に会うと、昌は使者を倫に同行させ燕に入り金主亶に会わせ、まず廃豫を謝し、次いで使いの指図を伝えると、金主は初めて群臣と密かに和議を許すことを決め、倫を帰し、太原少尹烏陵思謀・太常少卿石慶を行在に遣わし議事させた。倫は館で計事に往来した。
  • 8年秋、端明殿学士として再び金国に使いし、知閤門事藍公佐が副となる。忌日を確認し梓宮の返還を求め、倫は都堂に赴き使いの指図20余事を授かった。金国に着くと金主亶は3日間宴を設け、簽書宣徽院事蕭哲・左司郎中張通古を江南詔諭使として倫と共に来朝させた。金使の傲慢な態度への抗議が議論となり、多くは倫を責めた。
  • 11月、倫は行在に至り病を理由に祠を請うが許されず、内殿で奏事するよう促された。当時蕭哲らは驕慢で国書受領の礼が定まらず、御史中丞句龍如淵は都堂で秦檜と議し倫を召して「あなたは使者として両国の好を通じる役、事はすべて彼の地で反覆し論定すべきもの、なぜ使者と共に来てから議するのか」と責めた。倫は泣いて「私は万死一生を経て虎口を往来すること数度、今日中丞にこう責められるとは」と答えると、檜らは「中丞に他意はなく、あなたにこの事を成し遂げてほしいだけだ」と取りなし、倫は「それならば力を尽くさぬわけにはいかない」と応じた。
  • 倫は通古に会い一二の策で動かすと、通古は恐れ、結局檜が金使の館で国書を受け取って帰ることで議が決した。金は梓宮・太母・河南の地を帰すことを許した。
  • 9年春、倫に同進士出身が賜られ、端明殿学士簽書枢密院事、迎梓宮奉還両宮交割地界使を充てられる。さらに倫は東京留守兼開封尹となり、東京に至り金の右副元帥兀朮と地界の交割を行うと、兀朮は燕に還った。
  • 5月、倫は汴京から金国へ議事に赴く。初め兀朮は還る際、金主に「河南の地は本来撻懶・宗磐が謀って宋に割いたもの、この二人は必ず彼の国と密かに結んでいる、いま使者が汴に至ったからには境を越えさせるな」と密告していた。倫には雲中時代の旧吏で兀朮に隷属する者があり密かに倫に告げ、倫はただちに使者を朝廷に遣わし備えを求めた。兀朮は中山府に命じ倫を拘束し、宗磐と撻懶を殺害した。
  • 10月、倫は初めて金主に御子林で使いの指図を伝えたが、金主はすべて咎めず、翰林侍制耶律紹文を宣勘官として倫に撻懶の罪を知っていたか問わせた。倫は知らぬと答え、さらに「歳幣について一言もなく、逆に割地を求めに来た、汝は元帥のみを知り上国を知らぬのか」と問われると、倫は「先に蕭哲が国書を持って来て梓宮・太母・河南の地の返還を許した、天下は皆上国が海上の盟を尋ね民を休息させ、使者を遣わし両国の好を通じたことを知っている」と答えた。
  • 館に入ると金主は再び紹文を遣わし「そなたは雲中に留められ帰る期がなかった、それを貸して帰したのに何の報いもない、それどころか反間して我が君臣を離間させようとするのか」と諭し、藍公佐を先に帰し歳貢・正朔・誓表・冊命等の事を議論させ、倫を拘留して報告を待たせた。まもなく河間に遷され、二度と遣わされなかった。
  • 10年、金が盟約を破り兀朮らが再び河南を取ると、倫は河間に6年居住。14年、金は倫を平灤三路都転運使にしようとし、倫は「命を奉じて来たのであり降ったわけではない」と述べた。金はさらに威で脅し使者を遣わして督促したが倫の抵抗は強まり、金は使者に杖を与え倫を縊死させようとした。
  • 倫は使者に厚く賂を贈り猶予を得ると、冠帯を整え南に向かい再拝して慟哭し「先臣文正公は直道で両朝を輔相し天下の知るところ、臣は今使命を受け留められ偽職で汚されようとしている、臣はどうして一死を惜しんで命を辱めようか」と述べ、就死した。享年61。
  • 河間では地震と雹が3日間止まず、人々は皆哀しんだ。詔で通議大夫を贈られ、その家に金千両・帛千匹を賜り、子の述と従兄の遵が金の境に入り河間で倫の骨を得て帰り、官が葬事を給した。のち諡「愍節」を賜った。

宇文虚中

  • 字は叔通、成都華陽の人。大観3年進士第に登り州県を歴任、入朝して起居舎人・国史編修官・同知貢挙となり、中書舎人に遷る。
  • 宣和年間、太平が長く続き兵将は驕惰、蔡攸・童貫は功を貪り辺境を開こうとし、燕雲の役を興そうとして女直を引き入れ契丹を挟撃しようとした。虚中は参議官として、廟謨の失策と主帥の不適格を憂え、侮りを受け自ら焼かれる禍を招くと考え、用兵の法はまず強弱を計り虚実を策し彼己を知って万全を図るべきと上書した。今、辺境には応敵の備えなく府庫には数ヶ月分の蓄えもない、安危存亡がこの一挙にかかっているのに軽々しく議論できようか、また中国と契丹の講和はすでに百年に及び、女真の侵略を受けて以来契丹は本朝を慕い恭順であるのに、恭順な契丹を捨てて藩籬とせず海外に遠く出て強悍な女真を隣とするのは籍もない虚喝と驕慢に過ぎず、礼義で服させることも言葉で説得することもできない、卞荘子の両虎討ちの計を用いて兵を境に越えさせ、百年怠惰の兵で新鋭の敵に当たり、寡謀安逸の将で血肉の戦場に角逐させることになる、中国の禍は止む期がないだろうと述べた。
  • 王黼は大いに怒り集英殿修撰に降し督戦をますます厳しくさせ、虚中は11策・20議を建てて上奏したがすべて返答されなかった。
  • 幹离卜・粘罕が分道して侵攻すると童貫は憂懣し、虚中・范訥らと謀り闕に赴き禀議するふりをして逃げ帰る計を立て、9月に汴京に至った。この日粘罕が太原に迫るとの報が入り、帝は虚中に「王黼はそなたの言葉を用いなかった、いま金人が両路から進んでいる、どうすべきか」と問うた。虚中は「今日はまず自ら罪を認める詔を降し弊政を改め、人心を悦ばせ天意を回すことで、備禦・将帥の事を任せられるようになる」と述べ、虚中に詔を起草させた。詔には「言路は塞がれ面諛が日々聞こえ、恩倖は権を握り貪欲を得意とし、上天が震怒しても朕は悟らず、百姓が怨嗟しても朕は知らなかった」とあり、宮人の放出・応奉の廃止なども述べられた。帝は詔を見て「今日から過ちを改めることを惜しまぬ、直ちに施行せよ」と述べ、虚中は再拝し涙を流した。
  • 当時守禦を任せられる人材が不足しており、熙河帥姚古・秦鳳帥种師道を召して本路の兵で鄭洛に会し外は河陽を援け内は京師を守らせようとし、帝は虚中に「そなたと姚古・師道は兄弟のようなものだ、一人の使者名でその軍を護るべき」と述べ、虚中は資政殿大学士・軍前宣諭使に任じられた。虚中は姚古・師道の兵馬に汴京に直行して援けるよう檄した。金騎が城下に至り兵を放って鄭州まで略奪したが馬忠に破られ収まり、西路がやや通じ師道・姚古および他の西の兵は汴京に達することができた。
  • 虚中も馳せ帰って散卒を収め東南の兵2万余人を得て、便宜により致仕官李邈を統領とし汴河の門外に駐兵させた。姚平仲が金営を劫って失敗すると西の兵はことごとく潰え、金人は再び兵を引いて城下に迫り、虚中は縄で城内に降ろされ入った。
  • 欽宗は劫営が朝廷の意でなく姚平仲の擅興であることを弁じる使者を送ろうとしたが、大臣は誰も行こうとしなかった。虚中は命を受けすぐに都亭駅に赴き金使王芮に会い、書を携え和議を再開した。濠橋を渡る際は甲騎が水のように連なり、雲梯・鵝洞が地を覆い、その鋒刃を冒して進んだ。敵営に着くと風埃の中に露座させられ、朝から夕まで金人が矢を注ぎ刃を露わにして取り囲む中、ようやく軍中で康王に会うことができた。
  • 翌日、王に随って金幕に至り二太子に会うと、言葉は不遜で礼節は倨傲であった。暮れになると人を虚中に随わせ城に入らせ越王・李邦彦・呉敏・李綱・曹晟および金銀・騾馬などを求め、また御筆で三鎮の境界を定めることを求めてから退軍すると告げ、虚中に再び赴き必ず康王の帰還を請わせた。虚中は再び出て、翌日康王に従って還り、簽書枢密院事を除せられた。
  • 以後さらに3度赴くが、金人は依然として三鎮を強く求め、虚中は涙を流して答えられず、金の将は色を変えた。虚中は「太宗の廟は太原にあり、上皇の祖陵は保州にある、どうしてこれを割き棄てられよう」と述べると、諸酋長は「枢密が少しも譲らないなら我らも少しも譲らない、中国人の言う『脱空(口先だけ)』ではないか」と述べ、結局兵を解いて北へ去った。
  • 言者が議和の罪を弾劾し虚中は罷され知青州に転じ、まもなく職を落とされ祠に付された。建炎元年、韶州に竄られる。2年、絶域への使者を求める詔があり虚中は応募し、資政殿大学士に復して祈請使となり楊可輔がその副となった。まもなく劉誨を通問使、王貺を副とした。
  • 翌年春、金人はいずれも帰そうとしたが、虚中は「命を奉じて北に来たのは二帝を祈請するため、二帝が未だ帰らぬ以上、虚中は帰るわけにいかない」と述べ独り留まった。虚中は才芸を持ち、金人が官爵を与えるとこれを受け入れ、韓昉らとともに詞命を掌った。翌年、洪皓が上京に至りこれを見て大いに卑しんだ。
  • 累官して翰林学士知制誥兼太常卿となり河内郡開国公に封じられ、金の太宗睿徳神功碑を書き、金紫光禄大夫に進み、金人は「国師」と号した。しかしこれによって東北の士は皆虚中が北に陥ったことに憤り恨んだが、実は虚中は密かに信義を以て金人と結び、金人はこれに気づかなかったのである。
  • 金人が南侵を欲するたびに、虚中は「費用を費やし人を労し遠く江南を征しても荒僻な地を得るだけで国を富ませるに足りない」と諫めた。王倫が帰って虚中が長く節を守り屈しなかったことを述べると、詔で福州にその家族を存恤させ、その子師瑗を本路輔運判官に添差した。秦檜は虚中が和議を妨げることを憂え、その家族をすべて金国へ遣わし牽制しようとした。
  • 金の皇統4年、承旨に転じ特進を加え、礼部尚書に遷り承旨のまま。虚中は才を恃み軽々しく振る舞い譏諷を好み、女真人を見ればいつも「礦鹵(粗野)」と評したため、貴人・達官はしばしば不平を募らせた。虚中はかつて宮殿の牓署を撰したが、本来嘉美な名であったのに憎む者がその字を摘出して誹謗として告発、これが積み重なり虚中に謀反の罪が着せられた。取り調べても実証はなかったが、虚中の家の図書を反具として羅織した。
  • 虚中は「死は自分の分に過ぎないが、図籍については南から来た士大夫の家には皆あるものだ、高士談の図書は私の家よりも多い、それも反逆というのか」と述べた。有司は上意に阿って士談も併せて殺し、虚中は老幼百口とともに同日焚死させられた。天もこれに応じて昼が暗くなったという。
  • 淳熙年間、開府儀同三司を贈られ諡「粛愍」、廟を賜り「仁勇」と称し、後嗣を立てられた。これが紹節であり、官は簽書枢密院事に至る。開禧初年、少保を追贈され趙姓を賜り、文集が世に行われた。

湯思退

  • 字は進之、処州の人。紹興15年、右従政郎として建州政和県令を授かり、博学宏詞科に試験合格、秘書省正字を除せられる。これより郎曹・貳中秘(副次官)を経て史筆を執った。
  • 25年、礼部侍郎から端明殿学士簽書枢密院事に除せられ、まもなく大政に参加。先に秦檜が政権を握り正直な者を憎み、和議に異論を唱えず檜の過失を摘発しなかった者を久しく用いていたが、思退の名声はしだいに高まった。檜は病篤くなり参知政事董徳元と思退を病床に招き後事を託し、それぞれに黄金千両を贈った。徳元は自分を外者扱いすると思われることを恐れ辞退できず、思退は自分に檜の死を期待していると思われることを恐れ受け取らなかった。高宗はこれを聞き思退が金を受け取らなかったことから檜の党でないと考え信用した。
  • 26年、知枢密院事を除せられ、翌年尚書右僕射を拝し、さらに2年後左僕射に進む。翌年、侍御史陳俊卿は思退が巧詐の心と傾邪の術を用いていること、その振る舞いはみな秦檜を倣ったものであると論じ、思退の出世はすべて檜父子の恩によると述べ、これにより罷され観文殿大学士として祠に付された。
  • 隆興元年、符離の戦で軍が潰えると思退は再び宰相に召され、諌議大夫王大宝が上章して反対したが取り上げられなかった。金帥紇石烈志寧が三省枢密院に海・泗・唐・鄧の四郡の割譲を求める書を送ると、思退は和議を望み、淮西安撫司幹辦公事盧仲賢に枢密院計議編修官を加え報書を持たせ赴かせた。出発前、帝は四郡を許さぬよう戒めていた。
  • 仲賢が宿州に至ると僕散忠義は威嚇し、仲賢は恐懼して帰って禀命すると述べ、忠義はこれを三省枢密院への書状としてしまった。帝はなお海・泗のみの割譲阻止を望んだが、思退はただちに吏部侍郎王之望を通問使、知閤門事龍大淵を副として四郡を割棄しようとした。
  • 張浚が揚州でこれを聞き子の栻を遣わして仲賢の国辱を上奏させ、帝は怒った。侍御周操が仲賢の擅断を論じたため大理寺で究問され、浚が行在に召された。12月、思退は左僕射、浚は右僕射を拝した。
  • 2年、浚は金とまだ和すべきでないとして帝の建康行幸と進兵を請い、帝は王之望らと一行の礼物をすべて回収する批を下し、荊襄・川陝に辺備を厳にする詔を出し、仲賢を郴州に竄った。思退は宗社の大計を上皇に禀告してから事を進めるべきと恐れて上奏し、帝は三省に「金は無礼なることこの通り、それでもなお和を言おうというのか、今の敵勢は秦檜の時代とは違う、そなたの議論は秦檜にも及ばぬ」と批示した。思退は大いに驚き密かに浚を除こうと謀り、之望・大淵に駅で兵少なく糧乏しく楼櫓・器械も未備であると上疏させ、また4万の衆で泗州を守るのは得策でないと述べさせた。帝はやや惑わされ、浚に辺を巡り兵を還し招納を罷めるよう命じた。
  • 浚は力を尽くして政を辞すことを乞い許された。帝は思退に金へ四郡を許す書を書かせたが、金は専ら殺戮を行うようになり帝は後悔しはじめた。思退はさらに密かに孫造に重兵で脅して和を促す策を敵に諭させ、帝は敵兵の情報を聞き建康都統王彦らに禦がせるとともに思退に江淮軍の督視を命じたが、思退は辞退し赴かなかった。
  • 僕散忠義が清河口から渡淮すると、言者は思退の急な和議・撤備の罪を極論し、思退は罷相され永州に居住させられた。太学生張観ら72人が思退・王之望・尹穡らの姦邪誤国・招敵の罪を論じ斬を請う上書をし、思退は憂え悸えて死んだ。
  • 思退は終始張浚と合わず、浚は雪辱・復讐を志としたのに対し、思退は常に「保境息民」を口実とし、互いに勝敗を繰り返した。思退の策はついに実行されたが、結局免れることはなかった。金は海・泗・唐・鄧を得たうえ商・秦をも求めた、これはすべて思退の力によるものであった。

史論

  • 白時中の臆病で佞まい、徐処仁の姦悪、馮澥の邪枉、湯思退の巧詐でありながら楊時を排し李綱を誤らせ張浚と対立したことに、その識見の程度が見て取れる。多少の善行があってもどうして数えるに足りようか。王倫は品行が定まらぬ人物であったが使者としては虎口を往来することしばしば拘留されながら、金人が官職で脅しても遂に受けず迫られて死んだ。悲しいことだ。虚中がその官命を受け金の官制を定め赦文を起草して富貴を享受したことと比べれば、大きな隔たりがある。結局は軽率な譏諷によって一族を滅ぼしたのは、まことに義命を知らぬ者と言うべきである。冤死とはいえ自ら招いたことでもあり、豫譲の言に照らせばなおさら恥ずべきことである。