宋史卷三百六十七 列傳第一百二十六 楊政
楊政(字は直夫、原州臨涇の人)は呉玠に従い和尚原・仙人関の防衛で数々の戦功を重ねた武将で、金境に留められた母を迎える機会があってもまず忠義を尽くすよう説く母の意を守り、紹興九年の和議成立後にようやく迎えた逸話で知られる。利州西路で漢中の水利を十八年守り、紹興二十七年、六十歳で卒し開府儀同三司・襄毅の諡を贈られた。
出自と呉玠の下での武功
- 楊政、字は直夫。原州臨涇の人。父の忠は崇寧3年(1104年)夏の大侵で戦死、政は7歳で成人のように哀号し、母は「親に孝ならば君に忠ならん」と称えた。宣和末年応募して弓箭手となり、建炎年間から呉玠に従い9戦9捷、武顕郎に至った。紹興元年(1131年)和尚原・箭筈関の防衛で戦功、右武大夫に遷る。紹興10月の金の大攻勢では日々数十合の激戦を制し糧道を断つ奇策も用い、恭州刺史を拝した。母妻が金の境内に留められていたことを理由に兵権を疑う者もいたが玠は用い続けた。
- 紹興3年(1133年)饒風関の戦いで玠に従い6日戦った。紹興4年(1134年)撒里曷の仙人関侵攻に対し「この地は蜀の要害、堅守しつつ時に奇襲すべき」と献策、玠はこれを容れ連日百余戦を制した。龍神衛四廂都指揮使・環慶路経略安撫使などに進み、紹興5年(1135年)秦州を一戦で回復。母を敵境から迎える機会を得ても忠義を勧める母の言葉を守り、紹興9年(1139年)和議成立後にようやく母を迎えた。熙河蘭鞏路経略安撫使・武康軍承宣使などを経て、紹興10年(1140年)の金の渝盟に際し寳雞での渭水沿岸の7大戦で功を挙げ武当軍節度使を拝した。
晩年
- 紹興11年(1141年)胡盞・習不祝の5万の軍に対し呉璘・郭浩と共に仙人原で対応、寳雞の金将通検を計略で破り捕えた。和議成立後は帥として軍民に留任を請われるほどの信頼を得た。加検校少保、紹興14年(1144年)利州東西分割で興元府に屯し、太尉を拝し紹興27年(1157年)60歳で卒した。開府儀同三司・謚襄毅を贈られた。漢中で18年間、六堰の灌漑を修復し漢江の決壊にも長堤を築いて対処、10余年昇進せずとも将士は動揺しなかった。呉璘の裨将から璘と道を分けた後も門下の礼を尽くし、世間は彼を賢とした。
史論
- 李顯忠は生まれながらに奇異な相を持ち異域で功を立て、父子で家を破って国に殉じ中原回復を志したが、讒構に遭いしばしば廃黜された。傷ましいことである。楊存中は淮甸を出入りし大勝負こそ少なかったが、兵を最も長く典り貴寵ひとり隆盛で、かつ禍を避ける機を知る天の幸いがあったと言うべきだろう。郭浩・楊政は玠・璘兄弟をよく助け、川蜀の保全に力を尽くした人物たちである。彼らはみな人に頼られて功を成した者たちだが、和議に阻まれ好機をしばしば失い人心を沮喪させ、周の吉甫・方叔のように福祉を受けて凱旋し中興の業を成すことができなかった。惜しいことである。