出自と西辺での武功
- 郭浩、字は充道。順徳軍隴千の人。若くして環慶路第五将の部将として夏軍と戦い、靈州城下で夏の追撃騎兵の首2つを得た。种師道に従い塞水源を奪った敵を撃退、石尖山では流矢を受けても奮戦を止めなかった。欽宗即位後、种師道の推薦で対策を献じ、涇原の警戒を訴えて的中させた(西安州・懐徳軍の陥落を予見)。种師中の河東制置に随行し、建炎元年(1127年)知原州、建炎2年(1128年)長安陥落・涇州守臣夏大節の逃亡の中、わずか200人で赴任し金の使者に「郭浩である、戦いたければ決戦せよ」と告げ撤退させた。鄜延路経略安撫として保安一軍・徳静一砦のみが宋に属す中、一年間対峙を維持。
秦州・金州での防衛
- 張浚の宣撫処置使のもと秦鳳路提点刑獄・知秦州となり、富平の戦いを慎重論で回避すべきと進言したが聞かれず、五路すべて陥落。呉玠と共に和尚原・仙人関の防衛に従事し功を重ねた。紹興元年(1131年)饒風関陥落後の梁洋侵攻を呉璘と共に撃退。興元府知事の時、饑民の反乱を鎮圧。呉玠との意見対立(宋万年の訴訟をめぐる齟齬)を機に知金州兼永興軍路経略使に転じ、荒廃した金州で流民を招き営田を興し、他軍が朝廷の援助を仰ぐ中、独り10万緡の余剰を戸部に献じた。
- 河南地返還後、龍神衛四廂都指揮使・陝西宣諭使などを歴任し、樓炤の関中経略に協力。紹興11年(1141年)胡世将の召集に応じ呉璘・楊政と共に仙人原で攻取の策を授かり伏兵で敵を破った。紹興14年(1144年)検校少保、田50頃を賜るも文資への転換を辞退し「臣父子は行陣より起った、本を忘れたくない」と述べ、代わりに一子に閣職を賜らせた。利州を東西に分けた際、金房開達州経略安撫使・知金州・樞宻院都統制として金州に帥府を建て、紹興15年(1145年)59歳で卒した。少師を贈られ謚恭毅。淳熙元年(1174年)金州に立廟を許された。