宋史卷三百六十七 列傳第一百二十六 楊存中
代州崞県の人、もとの名は沂中(?–1166年、65歳)。祖父・父ともに金との戦いで戦死。南渡後は苗劉の乱鎮圧、藕塘・拓臯の戦いなどで功を重ね、殿前都指揮使として25年間宿衛を統べた。和議に強硬に反対し、晩年も金主亮の南侵に際し京口防衛に当たった。諡は忠武恭、追封は和王。
年表(10件)
- 建炎2年1128年徐明討伐で屠城を諫止し民を救う
- 紹興元年1131年李成討伐の玉隆観の戦いに勝利する
- 紹興6年1136年藕塘の戦いで劉猊の軍を大破する
- 紹興10年1140年柳子鎮への夜襲を強行し伏兵に遭い危うく全滅しかける
- 紹興11年1141年拓臯の戦いで金軍を大破するが濠州救援では大敗する
- 紹興31年1161年罷免されるが金主亮の南侵の急を受け御営宿衛使として京口を防衛する
- 隆興元年1163年符離の敗戦後、再び御営使に起用される
- 隆興2年1164年和尚原割譲の議論に反対する
- 乾道元年1165年班師の功により昭慶軍節度使に進む
- 乾道2年1166年65歳で卒する
出自と初期の武功
- 楊存中、もとの名は沂中、字は正甫。紹興年間に存中の名を賜った。代州崞県の人。祖父の宗閔は永興軍路総管として金軍と戦い戦死、父の震も麟州建寧砦で戦死。存中は魁梧沈鷙で「大丈夫たるもの武功で富貴を得るべきで、なぜ腐儒として俯くのか」と語り孫呉の兵法を学んだ。宣和末年、山東河北の群盗討伐で功を重ね忠翊郎に至った。靖康元年(1126年)、汴京救援に信徳府から入援、劉光世の部曲に隷し、上(欽宗、後に高宗)から張俊に問われ推挙されて召見された。任城の賊李昱討伐では数百人を殺し全身が血に染まり、帝がこれを見て「酌此血漢(血まみれの豪傑よ)」と語り酒を賜ったという逸話がある。
- 建炎2年(1128年)徐明討伐で屠城を諫止し民を救った。苗劉の変では張俊に従い難に赴き、明州での金軍撃退でも竒功を挙げ文州防禦使・御前中軍統制。紹興元年(1131年)李成討伐で兵を分けず一気に攻める策を進言、玉隆観の戦いで勝利、筠州の激戦でも夜襲策を用い8千人を降した。降卒の処遇をめぐり張俊が坑殺を強行したことに存中は反対した。
藕塘の戦いと拓臯の戦い
- 紹興6年(1136年)、龍神衛四廂都指揮使として、張浚の意向で世忠救援に赴き、劉猊軍を藕塘で大破(統制吳錫が敵陣を突き、存中自ら精騎で敵の脇を突いた)。劉麟も順昌撤退を余儀なくされ、獲得した賊船・車が多数に上った。保成軍節度使・殿前都虞候に進んだが、殿司・馬歩司を独総することへの懸念から辞退を上表するも許されなかった。
- 紹興10年(1140年)、金の叛盟に対し柳子鎮への夜襲を強行したが伏兵に遭い危うく全滅しかけ、参議官曹勛が存在を掴めず朝廷が震撼する一幕もあった。紹興11年(1141年)拓臯の戦いでは「敵は弓矢を恃みとするので長斧の兵を城壁のように並べて進ませる」策で大破したが、濠州救援では劉錡の慎重論を退け強行して大敗(濠州陥落後の追撃で多数の死傷者を出した)。この失敗は拓臯の功で相殺され、検校少保・開府儀同三司・殿前都指揮使に進んだ。
紹興末〜晩年
- 徽宗梓宮の攢陵に際し都護を務め少傅を拝す(保傅を管軍が兼ねるのは存中に始まる)。太学謁見を願い出て「学校が興れば武人も孝経に通じる」との帝言を得た。恭国公・少師などに進み殿巖に25年在職、しかし権寵の集中を諫める上奏が相次いだ(李浩・陸游・王十朋・陳俊卿ら)。紹興31年(1161年)罷免され太傅・醴泉観使・同安郡王に進んだが、金主亮の南侵の急を受け御営宿衛使として京口防衛を担い、虞允文と協力して敵を退けた。金の和議申し入れに対し「族属の返還・旧疆の回復・歳幣の削減がなければ和議に応じるべきでない」と強硬論を述べた。
- 隆興元年(1163年)符離の敗戦後、再び御営使に起用され、隆興2年(1164年)和尚原の割譲議論に対し「隴右の藩要を金に与えれば漢川を睥睨される」と反対し呉璘の立場を代弁した。都督江淮事を兼ね、諸軍の不統一を調整し互いに援護し合う体制を築いた。金兵の揚州侵入時は軽率な渡河攻撃を戒め、乾道元年(1165年)班師の功で昭慶軍節度使に進んだ。楚州の屯田を私財として献上、乾道2年(1166年)65歳で卒し太師を以て致仕、和王を追封され謚忠武恭。高宗は旧臣を悼み涙し、賻銭10万を賜った。忠孝と大小200余戦・50余創の武勲で知られ、宿衛出入り40年、過失が最も少なかったと評される。祖父母・父母の死難に対し廟号(忠介・忠毅)と廟(顯忠・報忠)を賜り、家廟の祭器も許された五世未曾有の恩遇であった。李顯忠を罪から救い統制官に推挙するなど部曲以外の人材も公平に用いた。克敵弓を改良した「馬皇弩」の考案でも知られる。鳳山の別荘・湖山の園亭は高宗の書「水月」を掲げる閣を持ち、孝宗も「風雲慶会之閣」と題した。子の偰は工部侍郎、倓は簽書樞宻院事・昭慶軍節度使。