宋史卷三百六十七 列傳第一百二十六 李顯忠
綏徳軍青澗の人、初名は世輔(?–1177年、69歳)。金に服属した後、一族を金に殺され夏に逃れて兵を借り、紹興9年に延安を回復して南宋に帰順した。采石の戦いや隆興の北伐で武功を立てたが、邵宏淵との不和により北伐は失敗し、晩年は不遇であった。
年表(4件)
- 紹興9年1139年延安招撫使として延安を回復する
- 紹興29年1159年安豐軍で大人洲の戦いに勝利する
- 隆興元年1163年淮西招撫使を兼ね金の統軍蕭琦を内応させ河東奪回を画策する
- 淳熙4年1177年7月、69歳で卒する
出自と金への服属
- 李顯忠、綏徳軍青澗の人。初名は世輔、南帰後に顯忠の名を賜った。唐以来、蘇尾九族巡検を世襲する家柄。誕生に際し僧が「これは奇男子、剣矢を母のそばに置けば生まれる」と告げ、実際にそのように生まれたという逸話がある。17歳で父の永竒に従い従軍。金人が鄜延を侵した際、経略王庶の命で間者を務め、17人を殺し首2級を得て名を知られた。金人が延安を陥落させると顯忠父子は金の官を授けられたが、父の永竒は「我らは宋臣なのに彼らに使われるとは」と泣いた。劉豫の命で東京に赴いた際、永竒は密かに「機会があれば帰順せよ」と戒めた。顯忠は密かに雷燦に蠟書を持たせ朝廷へ送ったが、事は成らず、金の兀术から承宣使・知同州を授けられた。
帰順と一族の惨劇
- 永竒の教えにより同州で金の元帥撒里曷を計略で捕えたが、追撃を受け激戦の末に撒里曷を崖に突き落として脱出し、老幼を率いて北へ長駆、鄜城県から永竒に急報したが、永竒一家は逃避行の途中で金軍に遭遇し200人が惨殺された。顯忠はわずか26人で夏国へ逃れ、夏主に父母妻子の仇を訴え、20万騎を借りて陝西5路を取り宋に帰す約束を取り付けた。青面夜叉と号する酋豪を捕えた功で夏主から兵を得て、紹興9年(1139年)2月14日、延安招撫使として延安を回復。総管趙惟清が「鄜延路は今宋に復した」と歓喜し、百姓も慟哭した。夏の招撫使&KR1529;訛が撤兵に応じず、顯忠はこれを刀で斬ろうとしたが果たせず、夏の鉄鷂子軍を撃退し馬4万匹を得た。紹興9年の文書で招兵し、旬日で1万人を得、父母を殺した者を斬った。
- 撒里曷は顯忠の来襲を恐れ耀州から逃走。四川宣撫呉玠の招きに応じ河池県で謁見、玠は「忠義の帰朝、君こそ第一」と称え、行府で告勅・金帯・指揮使承宣使を授けられ、高宗に謁見して名(顯忠)を賜り田を鎮江に賜った。招撫司前軍都統制として金軍と戦い、兀术は韓常に「李世輔は帰宋しても功を立てていないが、この者は勇敢だから避けるべき」と語り撤退したという。台州居住を経て寧国軍節度使・都統制に復帰。
采石の戦いと隆興の北伐(紹興31年〜隆興元年/1161〜1163年)
- 紹興29年(1159年)、金の再侵に対し安豐軍で大人洲の戦いに勝利。金主完顔亮の淮西侵攻で王権が敗れ和州も失われると、顯忠が王権に代わって軍を統率し、虞允文の勧めで采石の戦いに臨んだ(詳細は虞允文伝)。淮西の州郡を回復し、横山澗で金の射鵰軍を破って敵将を敗走させた。完顔亮は諸将を叱責するも自ら弑され、この戦いの功により太尉・寧国軍節度使などに進んだ。孝宗即位後、池州駐劄御前諸軍都統制、隆興元年(1163年)淮西招撫使を兼ね、金の統軍蕭琦を内応させ河東奪回を画策した。
- 張浚の督戦下、陡溝で拐子馬を破り靈壁を回復、宿州でも激戦を制した。しかし邵宏淵との不和(降兵の刀を奪った兵を斬った一件など)が深刻化し、宿州の戦いでも協力が得られず、金の孛撒率いる10万の援軍を単独で退けたが、夏の暑さで人心が動揺し、周宏らの夜間の逃走騒ぎが起こり、諸将が相次いで撤退。顯忠は「河南の地は指呼の間に回復できるはず」と嘆いたが、軍資器械を失う結果となった。張浚に印を返上して待罪、果州団練副使・潭州安置に降格されたが、後に撫州へ移された。乾道改元後、会稽に戻り防禦使・観察使・浙東副総管に復した。
晩年
- 威武軍節度使・左金吾衛上将軍・太尉などを歴任し、その魁偉な容貌が高く評価され肖像画も描かれた。淳熙4年(1177年)召されて京師に戻り、7月に69歳で卒し、開府儀同三司・謚忠襄を贈られた。