宋史卷三百六十六 列傳第一百二十五 吳璘

徳順軍隴干の人、字は唐卿(?–1167年、66歳)。玠の弟で和尚原・仙人関の防衛を支え、紹興11年には自ら考案した「疊陣法」で劉家圈の戦いに勝利した。玠の死後は西路(利州西路)安撫使として陝蜀の防衛を長く担った。追封は信王。

年表(10件)

出自と和尚原・仙人関での活躍

  • 吳璘、字は唐卿。玠の弟。若くして騎射を好み玠に従軍し功を重ねて閤門宣賛舍人となった。紹興元年(1131年)箭筈関の戦いで没立・烏魯折合の合流を阻止し功が最も多く統制に抜擢、和尚原の守備を専らとした。兀术の大侵の際は玠と共に死守、神坌の伏兵で大敗させ兀术は流矢を受けて遁走。涇原路馬歩軍副都総管、営州防禦使・知秦州などを歴任。紹興4年(1134年)、仙人関での大戦に先立ち玠に「殺金平は地が広く前陣は散漫になる、後陣を隘路に固めて必勝を期すべき」と進言、これを容れた玠は第二隘を修め、璘は囲みを冒して転戦し合流。諸将が退却を求めても璘は「兵は交わったばかりで退けば戦わずして走るのと同じ」と奮起させ、金軍を大敗させた。この功で定国軍承宣使・熙河蘭廓路経略安撫使などに進む。

兀术再侵と劉家圈の戦い(紹興10〜11年/1140〜1141年)

  • 玠の死後、神龍衛四廂都指揮使となる。金が劉豫を廃して河南陝西を返還した際、樓炤の三帥分陝案(郭浩=鄜延、楊政=熙河、璘=秦鳳)に対し、璘は「金は反覆常なく、蜀口を空にすれば危うい」と反対し、山を頼りに屯し要害を控える策を進言、炤はこれに従った。胡世将が河池に至った際も「金の大軍は河中府にあり、蜀口まで5日で至れる。我が軍は陝西に遠く、緩急に応じられない」と警告し、仙人関の防備を維持させた。
  • 紹興10年(1140年)金人が盟約を破ると璘は陝西諸路軍馬の節制を受け、河池で撒離喝の攻撃を受けるも、姚仲を石壁砦で戦わせ撃退。金鶻眼郎君の3千騎も李師顔に撃退させた。鎮西軍節度使・侍衛歩軍都虞候などに進む。紹興11年(1141年)胡盞・習不祝の5万の軍を破るため、璘は「新たに立てた疊陣法」(長槍を前に、強弓・強弩・神臂弓を段階的に配し、拒馬・鉄鈎で連結し、騎兵で前を蔽う)を献策、これを用いて劉家圈で二酋を大破し降兵1万を得た。しかし朝廷は驛書で班師を命じ、和尚原を割いて金に与える結果となった(秦檜の主導)。

西路安撫使としての治績と最晩年

  • 紹興12年(1142年)検校少師に進み、紹興14年(1144年)利州路を東西に分け西路安撫使として興州を治めた。紹興31年(1161年)金主亮の叛盟に際し四川宣撫使を拝し、契丹・西夏・山東河北に檄を送り金の罪を声討した。総領の王之望が璘の多病を理由に姪の京・襄師拱の召還を求めたが、璘は病を押して仙人関に赴いた。紹興32年(1162年)、姚仲の徳順攻めが4旬に及んでも落ちず金の援軍到来で敗北、璘自ら徳順に赴き夜襲策で8日で陥落させた。原州救援は姚仲の敗北で果たせず、璘は仲の兵権を奪おうとしたが、械繋にとどめた。
  • 孝宗即位後、陝西河東路宣撫招討使を兼ね、金の完顔悉列らの徳順攻めを堅塁で退けたが、朝廷の議で三路撤退を命じられ多くの死傷を出した。隆興2年(1164年)冬、金軍の岷州侵攻に対し祁山に出兵、和議締結で解兵。乾道元年(1165年)朝に召され、太傅・新安郡王に封ぜられ、高宗との旧誼を語らい合った。乾道3年(1167年)卒、年66。太師を贈られ信王を追封された。臨終に遺表を口述させ「陛下は四川を棄てず、軽々に出兵せぬよう」と願った。剛勇にして大節を好み、細事を厭わず史書に通じた。「弱者出戦、強者継之」の兵法を語り、孫臏の三駟の法に通じるとされた。金の四長(騎兵・堅忍・重甲・弓矢)に対応する兵法二篇を著した。

挺――吳璘の子

  • 挺、字は仲烈。門功により官に補せられ、璘に従い中郎将として西兵を率いた。西辺情勢を的確に応対し右武郎に進む。紹興31年(1161年)金渝盟の際、中軍統制として治平砦を破り、南市城でも背嵬騎を黄旗に変えて敵背に回り込む策で大勝したが功を彦(部下の梅彦)に譲り、璘も自身の功を隠した。翌年、姚仲と共に徳順を攻め、瓦亭で金軍を撃破し千戸耶律九斤ら137人を捕えた。鞏州攻略では東南の薄い地を突く戦術を献じ2日で陥落させた。
  • 孝宗即位後、東山に堡を築き敵の大車攻撃を大木で阻止する策を献じるなど武功を重ね武昌軍承宣使などに進んだ。璘の卒後、金州都統として父の喪に服し、後に左衛上将軍・主管侍衛歩軍司公事などを歴任。両淮の防衛策や馬市(宕昌の互市)の維持を上奏し、軍の統属を整理して十軍の制を定めた。密かに皂郊堡を修め器械を蓄えるなど辺備を怠らず、西和の饑饉には軍儲を分けて数千万の民を救った。廩賜の格差是正(折估制の中制化)も行った。二谷水の氾濫には堤を築いて防いだ。淳熙14年(1187年、原文「紹興二年」は誤記か)疾を得て致仕を願い、太尉を加えられ56歳で卒した。少師・開府儀同三司を贈られた。禮賢下士で恩を将士に施し、璘の旧部曲は庭下に拝礼すれば必ず答礼した。璘は孝宗に「諸子の中で挺だけは任せられる」と語り、孝宗も「挺は朕が千百人の中から選んだ者」と称えた。子5人、曦がその一人で大尉・昭信軍節度使に至ったが叛逆により誅された(別伝に見える)。

史論

  • 劉錡の神機武略は敵の意表を突いて勝を制し、順昌の捷は敵国を震わせた。韓信の泜水の戦いもこれに及ばないほどであったが、ある者は「英概に欠け雅量が余る」と評した。果たしてそうだろうか。呉玠と弟璘は智勇忠実、力を合わせ心を同じくして険を拠って敵に抗い、遂に全蜀を保って功名を全うした、盛んなることである。挺はたびたびの征討で功績著しく父の風があった。しかし玠は晩年やや荒淫、璘はしばしば敗戦を喫した。常勝に慣れて驕心が生じたのだろうか。あるいは三世にわたり将であったことが、後の逆曦の変を醸し宗祀を覆す一因となったのかもしれない。