出自と直言
- 范致虚、字は謙叔、建州建陽の人。太学博士として鄒浩の言事に連座し停官。徽宗即位後召見され左正言、崇寧初め右司諫、起居舎人、中書舎人を歴任。蔡京の講議司に招かれるが議が合わず兵部侍郎に左遷、以後十五年間華要職を歴任。
- 張商英に附いた廉で通州に貶されるも政和七年に復官、侍讀・刑部尚書などを歴任。講議司在職時、劉昺が蔡京に擠されそうになった際擁護し、王寀の妖言事件に連座した劉昺の減刑を主張して士論に賢とされた。尚書右丞・左丞に進み、母の喪に服す間、契丹への出師計画に対し「辺隙を開けば意外の患いを招く」と反対、その懐異が宰相の忌避を招いた。
- 富弼の旧宅を奪おうとした中人の企てを、致虚は「弼の和戎の功に報いるべき」として阻止した。徽宗の道教崇敬に迎合し道宇を営飭、鍊真宮の名を賜った。
太原救援の失敗
- 靖康元年、召されて知京兆府。太原包囲の中、防戦の備えを固め陝西宣撫使に任じられた。金が再度京師を犯すと会兵入援を命じられ、錢蓋の兵が潁昌で敗走し、西道総管の王襄も逃走する中、致虚は西道副総管の孫昭遠らと合兵、環慶帥の王似・熙河帥の王倚と合流し歩騎二十万を号した。
- 僧の趙宗印が兵を語り致虚に重用されたが、実は大言のみで兵を知らなかった。致虚は自ら陸路、宗印は舟師で西京を目指した。京師陥落の報に金の使者が入援中止の詔を持参すると致虚はこれを斬り、潼関を奪って長城を築くも高さは肩に満たなかった。宗印は僧兵を「尊勝隊」「浄勝隊」と称して編成したが実戦の役に立たなかった。
- 致虚は勇にして謀なく、宗印に委ねすぎた。金の守将高世由は「致虚は儒者にして兵を知らぬ、斥候三千で殺せる」と粘罕に語った。致虚の軍が武関を出て鄧州千秋鎮に至った際、金将の婁宿の精騎に不戦のまま潰され、死者は過半、杜常・夏淑は先に逃亡し致虚はこれを斬った。
- 部将の李彦仙は「行軍は速さが利、大部隊で険を突破すれば全滅する」と諌めたが致虚は聞かず、大敗に至った。
晩年
- 高宗即位後、逗撓不進の責で知鄧州に左遷。翌年、僧の趙宗印が武関から出兵し致虚と合流するも金将の銀朱に圧され致虚は逃走、宗印の軍も潰え、転運使の劉汲は力戦して死んだ。致虚は落職・安遠軍節度副使英州安置となる。高宗建康幸行後に復官し資政殿学士知鼎州となったが、赴任途中の巴陽で卒去、贈銀青光禄大夫。