宋史卷三百六十一 列傳第一百二十 張浚(字德逺)
張浚、字は徳逺、漢州綿竹の人。高宗即位に馳せ参じ、苗劉の乱平定・川陝経営・淮西方面の指揮など南宋建国期の軍事を支え、孝宗朝でも隆興北伐を主導した。秦檜との対立で長く左遷されたが、南渡の名臣として重んじられた。
年表(12件)
- 建炎三年苗劉の乱鎮圧のため挙兵に加わり平定に功をあげる
- 紹興元年呉玠が和尚原で金軍を撃退し、浚は検校少保定国軍節度使を拝命する
- 紹興四年辛炳の弾劾を受け洞霄宮提挙として左遷される
- 紹興五年尚書右僕射同中書門下平章事兼知樞密院事都督諸路軍馬に拝命する
- 紹興六年藕塘の戦いで劉猊を大破するなど淮西方面を指揮する
- 紹興九年赦により復官する
- 紹興十年金の河南奪回を受け、山東への直航を目的とする大船千艘の建造を献策する
- 紹興十六年秦檜を批判する上疏を決意し、その後連州に左遷される
- 紹興二十五年観文殿大学士判洪州に復す
- 紹興三十一年赦により自由の身となり、判建康府兼行宮留守に転じる
- 紹興三十二年車駕が建康に幸し、建康・鎮江・江州・池州・江陰軍の節制を委ねられる
- 隆興元年樞密使として李顕忠・邵宏渊を進発させ霊璧・虹県で勝利し宿州を克す
出自と生い立ち
- 張浚、字は徳逺、漢州綿竹の人。唐の宰相張九齢の弟九臯の後裔。父の張咸は進士・賢良の両科に挙げられた。浚は四歳で父を失い、常に品行方正で誑言がなく、識者はその将来の大器たることを知った。太学に入り進士に及第。
- 靖康初め、太常簿として在職中、張邦昌の僭立を逃れて太学に隠れた。高宗即位を聞いて南京に馳せ参じ、樞密院編修官、虞部郎、殿中侍御史を歴任。
高宗即位初期の直言
- 車駕が東南に幸した後、後軍統制の韓世忠の部下が諫臣を追い落として溺死させた事件で、浚は世忠の観察使を奪う処分を主張し、上下は初めて国法の存在を知った。侍御史に遷り、車駕が揚州にある時、中原こそ天下の根本であるとして東京・関陝・襄鄧の修葺と巡幸への備えを求めたが宰相の意に触れ、集英殿修撰知興元府に左遷されかけた。高宗は「卿は言うべきを尽くし言わぬことがない。朕は羽翼のない飛翔を望むようなもの。勉めて留まり朕を輔けよ」と留任させ、御営使司参贊公事とした。
- 浚は金軍の再攻を予見して備えを進言したが、宰相の黄潜善・汪伯彦は過度の心配だと笑った。
苗劉の変への対応(建炎三年)
- 建炎三年春、金軍南侵により車駕は銭塘に幸し、朱勝非を呉門に留めて防禦、浚は同節制軍馬に任じられた。潰兵数万が各地を掠奪する中、浚は招集を進めていたが、苗傅・劉正彦の乱が起こり、改元の赦書が届いた際、浚は東野に秘して宣布させず、傅らの檄が来ると慟哭して起兵の謀議を始めた。
- 傅らの承宣使であった張俊が浚に会い、討伐の謀を打ち明けられて協力を約した。呂頤浩・劉光世に蠟書で協力を求め、上疏して復辟を請うた。傅らは浚を礼部尚書に任じて懐柔しようとしたが、浚は大兵未集を理由に時を稼いだ。
- 韓世忠が常熟に至ると浚は書を送って招き、世忠は浚の前で慟哭。浚は俊・世忠らの将士を大いに犒い、諸将校に「今日の挙、順逆いずれか」と問い、「賊は逆、我らは順」と衆が答えると、浚は「賊が我が首に賞金をかけている。私のこの挙が天に反し人に悖るなら私の首を取れ、さもなくば軍法に従え」と告げ、士気を鼓舞した。
- 韓世忠を秀州に急派し糧道を確保。傅らの招降の書に対し浚は「乗輿を指弾し宮闕を震驚させることを大逆不道といい、族滅に処せられる。建炎皇帝は失徳なく、退位はあってはならぬ」と拒絶。呂頤浩・劉光世の兵も到着し、浚は傅・正彦の罪を声討して進軍。両者は臨平で敗れ逃走し、後に世忠に捕らえられ誅殺された。
苗劉の変後の高宗との関係
- 浚は頤浩らと入見し伏地して待罪すると、高宗は「かつて隔絶されていた折、一日啜羹の時に太母の命で已むを得ず卿を柳州に貶した。羹をこぼしたことを覚えている」と労い、皇太后も浚を引見し玉帯を賜った。高宗は浚を相にしようとしたが、浚は「晩進ゆえ」と固辞した。
川陝宣撫処置使としての闘い
- 浚は中興は関陝から始まるべきと考え、金が先に陝から蜀を取れば東南も危うくなると慷慨して自ら赴任を願い出た。川陝宣撫処置使に任ぜられ便宜黜陟の権を得た。出発前、御営平寇将軍の范瓊の悖傲無礼と苗劉の党の助命嘆願を糾弾し、瓊を大逆不道として棘寺に送り処刑、その軍を神武軍に分属させた。
- 川陝赴任後、諸将の風俗を糾し姦贓を罷斥して豪傑を招いた。金将の婁宿孛堇が渭を渡り永興を攻めた際、浚は関陝を巡視し諸将を鼓舞したが、金が江淮を大攻すると聞き軍を返して房州まで進んだ。金の主力を牽制するため五路の兵を合わせて永興回復を図り、金の兀朮らを富平で迎撃したが、環慶帥の趙哲が擅に離陣し諸軍が潰乱、浚は哲を斬って退保、呉玠に和尚原・大散関の要害を守らせ蜀口を固めた。
- 紹興元年、金将烏魯が和尚原を攻めるも呉玠がこれを大破、兀朮の再攻も呉玠・呉璘兄弟が撃退し、兀朮はかろうじて逃れ須髯を剃って変装したという。金の黏罕は死の間際、諸将に「張枢密には抗し得なかった、蜀を攻めるべきでない」と遺言したが、兀朮はこれに反発し攻めて敗れた。浚は検校少保定国軍節度使を拝命。
- 浚は関陝で三年、劉子羽・趙開・呉玠らを重用し、玠の連戦連勝と開の財政手腕により、関陝の失陥にもかかわらず全蜀を保ち、東南江淮への牽制にも寄与した。
- 建炎中に王庶を逐って印を奪った将軍の曲端を、浚は当初重用したが後に廃し、獄死させた。趙哲・曲端の処断や劉子羽・趙開・呉玠の任用について朝廷内で異論が出て、浚は疑われ、王似が副使として派遣された。宰相の呂頤浩・朱勝非との不和もあり、浚は行在に召還された。
讒言と江上視師(紹興四〜五年)
- 紹興四年、辛炳の潭州における不服従を糾弾したが、その辛炳が御史中丞となり浚を弾劾、浚は洞霄宮提挙として福州に左遷された。浚は金人が川陝の兵を東南に集中させることを予見して上疏したが、まもなく劉豫の子・麟が金軍を率いて南侵し、高宗はかつての浚の予言を思い出し、召還して知樞密院事とした。
- 浚は江上視師に赴き、兀朮の十万の兵が揚州で渡江を図る中、韓世忠に「張枢密は既に鎮江にいる」と言わせて兀朮を動揺させ、夕方には撤退させた。紹興五年、尚書右僕射同中書門下平章事兼知樞密院事都督諸路軍馬に拝命。趙鼎とともに輔治し、幸倖の門を塞ぐことに努めた。
楊么討伐と防秋の議
- 洞庭に拠る臣寇楊么の討伐に浚は盛夏を利用した攻撃を主張し、醴陵で釈放した囚人を諜者として招諭に用い、二十余万の賊衆が相次いで降伏、湖冦は平定された。上は浚に「上流が定まれば川陝・荊襄の勢力が連接し天下中興の功が付されよう」と賜書した。
- 岳飛を荊襄に屯させ中原を図らせ、諸将と防秋の宜を議した。四十一篇の『中興備覧』を献じ、高宗はこれを座隅に置いて称賛した。
淮西軍変と失脚
- 紹興六年、劉豫の再侵に対し韓世忠・劉光世・張俊・楊沂中・岳飛に各方面の任務を配し、藕塘の戦いで劉猊を大破。淮西の対応では張俊・劉光世の消極姿勢に対して浚は「賊豫は逆をもって順を犯している、勦除せねば国とならぬ」と進討を強く主張し続けた。
- 天子の徽宗・寧徳皇后崩御の報に際し、浚は「涕を揮って起ち、髪を歛めて趨り、一怒して天下の民を安んじよ」と諫言、命を受け詔を起草。中外は感動した。
- 劉光世の淮西軍が紀律を欠くとして浚が罷免を上奏、王徳・酈瓊を都統制・副統制としたが両者は宿怨があり、瓊は御史台に訴えを起こし、呂祉が節制のため派遣されたが、瓊らは全軍を挙げて叛き祉を殺害した。浚はこの事態の引責で辞任を申し出た際、高宗が秦檜の登用を問うと、浚は「近ごろ共事し、その闇(愚昧)を知った」と答え、代わりに趙鼎が用いられた。以後、檜は浚を恨んだ。
- 浚は観文殿大学士提挙江州太平興国宮に左遷。かつて偽地に手榜を送り劉豫と酈瓊の離間を図ったことなどで臺諫に弾劾され、祕書少監分司西京に落職、永州に居住した。
復官と海防の建策
- 紹興九年、赦により復官。金の使いが「詔諭」を名目に来る際、浚は五度上疏して争った。紹興十年、金が盟を破り河南を奪回すると、浚は権制を用いて大勲を集める好機と考え、山東への直航を目的とする大船千艘の建造を献策した。
- 十一年、検校少傅崇信軍節度使、萬夀観使。十二年、和国公に封ぜられた。
秦檜との対立と長期の左遷
- 紹興十六年、彗星が西方に出現し、浚は時事を極論しようとしたが母を憂えさせることを恐れ躊躇した。母は「臣は斧鉞に死すとも言わぬことはできぬ」との父の対策の語を誦して浚を励まし、浚は上疏を決意。事勢を頭目心腹の疽に喩え、「陛下が心中で謀り、情偽を察知することが必要」と説いたが、秦檜が激怒し、浚は特進提舉江州太平興國宮となり連州に居住、後に永州に移された。
- 浚が国を去ること二十年近く、天下の士は賢愚を問わず心を傾けて慕い、武夫健将は浚のことを語ればみな嗟嘆し、児童婦女までも「張都督」の名を知っていた。金人も浚の再登用を恐れ、使者が来るたびに浚の所在を尋ねたという。秦檜は浚を国賊と称し、必ず殺そうとして、汪召錫・張常先らに獄を構えさせ、趙鼎の子・汾を捕らえて浚との謀反を誣告させたが、檜の死により免れた。
- 紹興二十五年、観文殿大学士判洪州に復す。浚は母の喪に服す中でも、檜による二十年の辺備荒廃と金の完顔亮の簒立を憂い、居喪を憚らず上疏。しかし沈該・万俟卨・湯思退らはこれを笑い、浚を狂と評した。臺諫の弾劾により永州居住に戻された。
完顔亮の南侵と再登用
- 紹興三十一年、赦により自由の身となった浚は、欽宗崩御を聞いて号泣し、早期の守戦の策を求める上疏をした。まもなく完顔亮の大軍が侵入、王権の兵が潰え劉錡が鎮江に退くと、浚は観文殿大学士判潭州から判建康府兼行宮留守に転じられた。
- 浚は岳陽から舟で風雪を冒して江を下り、途中「敵兵は采石を焼いている、進むな」と忠告されても「君父の急に赴くのみ」と前進した。完顔亮死後の残兵二万を李顕忠が犒い、浚が建康に到着すると通判の劉之昻に行宮儀物の準備を命じた。
- 紹興三十二年、車駕が建康に幸すると、浚は道左に迎拝、衛士は皆手を額にあてて敬意を示した。上は浚に「卿がここにいれば朕は北顧の憂いがない」と語り、建康・鎮江・江州・池州・江陰軍の節制を委ねた。金軍十万が海州を囲むと、浚は張子蓋を派遣して大破させた。忠義の民兵を集め陳敏を統制とし、「敵は騎に長け我は歩に長ずる。歩を衛るには弩、弩を衛るには車」との戦術を献策した。
孝宗即位後の重用
- 孝宗即位に際し召見され、「久しく公の名を聞いていた。今、朝廷が頼るのは公のみ」と語られた。浚は「人主の学は心を本とし、一心が天に合えば何事も成る。天とは天下の公理である」と説いた。少傅江淮東西路宣撫使・魏国公に進封。
- 翰林学士史浩が瓜州・采石の築城を議したのに対し、浚は「両淮を守らず江干を守るのは敵に弱さを示すこと」と反対し、泗州の築城を先に進言。浩が参知政事となると浚の施策はしばしば沮まれた。
- 陳俊卿を宣撫判官に推薦。孝宗は浚の動静を頻繁に問い、「朕が魏公に頼るのは長城のようなもの、浮言に惑わされることはない」と評した。
隆興北伐
- 隆興元年、樞密使都督建康・鎮江・江州・池州・江陰軍軍馬。金将蒲察徒穆・大周仁が虹県に、蕭琦が霊璧に屯し南攻を計画していると知ると、浚はその機先を制することを主張、李顕忠・邵宏渊も同様の策を献じた。
- 浚は顕忠を濠州から霊璧へ、宏渊を泗州から虹県へ進ませ、自ら臨場して指揮。顕忠は霊璧で蕭琦を破り、宏渊は虹県を囲んで徒穆・周仁を降し、勝勢に乗じて宿州を克した。孝宗は「近年の辺報でこのような大捷はない」と手書で労った。
- しかし盛夏で兵が疲弊し急ぎ李顕忠らを召還したところ、金の紇石烈志寧の軍と連日交戦の末、諜報の誤りから顕忠は夜間に撤退。浚は待罪を上疏し、江淮宣撫使に降格された。宿師の失敗を主和派は浚の非として非難したが、孝宗は「今日の辺事は卿に依っている、人言を畏れて猶予すべきでない」と再び書を賜った。
- 浚は魏勝を海州、陳敏を泗州、戚方を濠州、郭振を六合に配し、高郵・巣県の防備を整え、滁州闗山を修め水軍を淮陰・寿春に置くなど両淮の守備を大いに整備した。
和議をめぐる湯思退との対立
- 金将僕散忠義が四郡と歳幣を要求すると、浚は「金が強ければ来、弱ければ止まる。和不和の問題ではない」と説いた。右相の湯思退(秦檜の党)は急いで和議を求め盧仲賢を派遣したが、仲賢は妄りに四郡割譲を約束して辱命。朝廷は王之望・龍大淵を通問使に立てたが、浚は再び反対、召見され和議の失を力陳した。孝宗はこれを容れ、誓書を留めさせた。
- 通書官の胡昉・楊由義を金に遣わし四郡割譲不可を伝えさせたところ、金は械繋して脅迫したが屈しなかった。浚は尚書右僕射同中書門下平章事兼樞密使都督に復し、思退は左僕射。孝宗は「和議の不成は天である、これからは事を一にすべし」と浚に語った。
- 紹興二年、建康巡幸が議されると思退は驚き乞祠を装いつつ浚を陥れる計を進めた。浚は江淮の視察に赴き、山東淮北の忠義の士約一万二千を建康・鎮江両軍に組み込み、万弩営に淮南の壮士・江西の群盗を加えて陳敏に統率させ泗州を守らせた。要害の地には城塁を築き、水を利用した防御を整え、江淮の戦艦・器械を充実させた。金軍は浚の到来を聞いて即座に撤兵し、淮北からの帰順者は絶えなかった。
- しかし思退は王之望に守備の無力さを喧伝させ、尹穡は督府参議官の馮方を通じ浚の費用が過大だと弾劾。浚は督府の解散を自ら申し出て許された。左司諫の陳良翰・侍御史の周操は浚の忠勤を惜しんだが、浚は平江に留まり少師保信軍節度判福州を辞し醴泉觀使に転じた。朝廷はついに棄地求和の議を決した。
晩年と死
- 浚は国を去ってなお尹穡の姦邪を批判し、上に務学親賢を勧めた。時事に言及するのを止めるよう勧める者に対し、浚は「君臣の義は天地の間に逃れようがない。両朝の厚恩を受け久しく重任を尸してきた。今は国を去ってもなお上心の感悟を日々望んでいる。見る所があって黙っていられようか」と答えた。
- 餘干に至って発病、二子への手書に「私は再度宰相となりながら中原を恢復し祖宗の恥を雪ぐことができなかった。死しても先祖の墓の左に葬ってはならぬ、衡山の下に葬るがよい」と遺言した。訃報に孝宗は震悼して朝を輟め、太保を追贈、後に太師を加贈、諡は忠献。
人物と業績
- 浚は幼くして大志を抱き、熙河幕官の頃から辺塁を遍歴して山川の形勢を観察し、旧戍守将と語らって辺備・軍陣の方略を学んでいた。京城中で二帝の北行・皇族の虜囚・生民塗炭を目の当たりにしたことから、終身和議を主張することはなかった。
- 定都の議論では常に建康を東南形勢の最良地とし、人主がここに居れば北望中原できると説き、銭塘は一隅に僻在し安逸に流れやすく号召に足らないと論じた。趙鼎とともに政を執っていた頃は多くの人材を抜擢し、その朝列は「小元祐」と称された。虞允文・汪応辰・王十朋・劉珙らを名臣として推薦し、呉玠・呉璘を行間から抜擢、韓世忠・劉錡を見出して重用し、いずれも名将として功を成した。時人は浚を「知人」と称した。
- 浚は母に孝を尽くし、易学に深く通じ、『易解』および雑説十巻、書・詩・礼・春秋・中庸の各解を著した。文集十巻・奏議二十巻がある。子は栻・枃の二人で、栻には別伝がある。
張枃(子)
- 枃、字は定叟。父の恩により承奉郎を授かり、広西経畧司機宜・通判嚴州を歴任。若くして能吏の称を得たが、浙西使者は所部の吏を推薦する際に枃を含めなかった。孝宗は特に再推薦を命じ、召対の後、知袁州とした。
- 豪彊を戢め盗賊を弭め、獄事の冤罪を見抜いて真の盗賊を捕らえた。知衢州に転じ、兄・栻の喪では祠の管理職を求めて葬事に専念。湖北提挙常平として奏事した際、帝は「張浚にこのような子がいる」と喜んだ。
- 浙西督理荒政を兼摂、蘇州・湖州の欠員を兼任した。有力な姻戚の閉糶を糾弾し、帝はその不畏強御を奨めた。両浙転運判官を経て知臨安府に進み、逋欠四万緡・米八百斛を免除。都城の姦盗を分地して警捕させ、夜も戸締りをせぬほどに治安を回復させた。
- 張師尹が娘を掖庭に納れて恣横した事件を糾弾し、その家を信州に徙した。三牐を修め六井を復したが、府治の火事が民居に延焼した責で自ら削秩を上疏。移知鎮江・明州を経て戸部侍郎、高宗崩御時は集英殿修撰知紹興府として山陵事を董した。
- 光宗即位後、権刑部侍郎兼知臨安府。内侍の毛伯益が西湖の茭地を私したり外戚が殺人した事件でも法に則り論奏を貫いた。孝宗が西湖を観た際、枃は彈壓として道左に伏謁し、孝宗は輦を止めて労い酒炙を賜った。
- 京西の帥に進み、煥章閣学士知襄陽府、その後徽猷閣学士知建康府、寧宗即位後は帰正人の陳応祥・党琪らの謀反を副都統馮湛に急報されても動じず処理し、首謀者二名を斬って党類は反側せず安定した。
- 龍図閣学士知隆興府兼江西安撫使として、奉新県の営田の重税を全て蠲免。端明殿学士に進み再び知建康府となったが、疾により祠を乞い卒した。天分高爽で吏才敏給、遇事に凝滞せず随宜に変通し、治辨で称された。南渡以来の尹京の中では枃を筆頭に称された。子の忠純・忠恕には別伝がある。
史論
- 儒者が国家において正直の気を養えば、君心を正し衆志を一にし、凶逆を攘い憂患に処してもかえって自得できる。張浚こそこの気を善く養った者と言えよう。張邦昌の議に逃れ苗劉の乱を平定した才識は、偸懦の者の敢えて望めるものではない。強敵を攘い劇盗を降し、将帥を心服させ、その及ぶ所は志の通りであった。遠人はその用不用を進退の指標とし、天下はその出処を安危の指標とした。まさに人豪と呼ぶべき存在である。
- 群言が沸き立ち屡々奮起しては躓きながら、なお「上が再び浚を用いようとすれば、老病を理由に辞さず即日就道する」と慨然と語った、その愛君憂国の心はどれほどのものであったろうか。当時の論者は浚の忠を漢の諸葛亮に類すると評した。しかし亮は魏延・楊儀を終生用いて異同なきを得たが、浚は呉玠の讒により曲端を殺した。亮は法孝直(法正)を容れたが、浚は李綱・趙鼎を容れずかえって詆った。これが浚の亮に及ばぬ点である。
- 富平の敗戦や淮西の兵変のような成敗利鈍の巡り合わせは、亮であっても予見し得なかったであろう。