宋史卷三百六十 列傳第一百十九 趙鼎

出自と生い立ち

  • 趙鼎、字は元鎮、解州聞喜の人。四歳で父を失い、母の樊氏が経史百家の書を教えた。崇寧五年の進士に登第。対策で章惇の誤国を斥け、河南洛陽令などを歴任。宰相の呉敏がその才を認め開封士曹に抜擢。
  • 金人が太原を陥落させ、朝廷が三鎮の割地を議した際、鼎は「祖宗の地を人に与えるべきでない」と反対した。京師陥落後、金が張邦昌の擁立を議した際、鼎は胡寅・張浚とともに大学に逃れて議状に署名しなかった。

高宗即位後の直言

  • 高宗即位後、権戸部員外郎・司勲郎官などを歴任。上が建康に幸するにあたり防秋の事宜を条議した際、鼎は六宮の止まる所を「行宮」、車駕の止まる所を「行在」とし、精兵で儀衛を備え、他の兵は江淮に分布して敵に真の所在を悟らせぬべきと進言。
  • 久雨により闕政を求める詔が出ると、鼎は熙寧年間の王安石の変法以来の弊害を指摘し、崇寧の蔡京がその政を継承したことを批判、王安石の配享を廃するよう建言した。
  • 劉光世の部将・王徳が韓世忠の将を殺した事件では、鼎は徳の専殺を糾弾し、また韓世忠にも切責の詔を求めた。高宗は「粛宗が李勉を得て朝廷を尊んだように、朕は卿を得て恥じることはない」と評した。

北兵来襲時の献策

  • 金軍が江上に迫り高宗が会稽に幸した際、鼎は戦・守・避の三策を陳べ、御史中丞に任じられ、王燮の宣州進軍、周望の広徳出兵、劉光世の蘄黄駐屯による邀撃策を進言。また経営中原は関中から始め、関中は蜀から、蜀に幸するには荊襄から始めるべきとし、荊襄を三国が争う要地として公安に行闕を置き重兵を襄陽に屯すべきと説いた。
  • 韓世忠が黄天蕩で金軍を破ったのち、宰相の呂頤浩が浙西への親征を求めた際、鼎はこれに反対し、頤浩に憎まれ翰林学士に左遷されたが拝命せず、頤浩の過失を千言にわたって疏したところ、上は頤浩を罷し鼎を復して御史中丞とした。
  • 楚州陥落の際、鼎は「敵が再渡せぬとは限らぬ、備えを怠らず政事を修めよ」と論じ、上は「卿らのおかげで憂いがない」と評した。

参知政事から左僕射へ

  • 参知政事として、岳飛の襄陽攻略を推薦(「上流の利害を知る者は飛に及ばぬ」)、成功に導く。韓世忠の泗上屯駐、劉光世の陳蔡出兵を主張。偽斉の宿遷令の帰順の処遇でも寛大な処置を主張し朱勝非と対立した。
  • 都督川陝諸軍事に任じられ蜀の全権を委ねられたが、宰相の朱勝非と施策が対立。九月、尚書右僕射同中書門下平章事兼知樞密院事に拝命。
  • 劉豫の子・麟が金と合流し大挙侵攻すると、鼎は張俊の進討を主張し、高宗の親征決意を喜んで支持。韓世忠は大儀鎮で金軍を大破。金軍の遁走を予見し、諸将に邀撃を命じて連戦連勝させた。
  • 張浚を推薦して知枢密院に召還し、江上視師を命じた。金軍撤退の情報も的確に予見し、上から「趙鼎は真の宰相、天が朕を助けるため遣わした」と評された。

秦檜との対立と失脚

  • 紹興五年、鼎は左僕射知樞密院事、張浚は右僕射兼知樞密院事となり、都督諸路軍馬。范沖・朱震を資善堂の翊善・賛読に推薦し、両朝の史書の編纂を監修し「忠正德文」の四字を高宗より賜った。
  • 劉豫の子・麟らの南侵に対し、諸将の配置を調整し、藕塘の戦いで大勝。鼎の献策により連戦連勝が続いた。
  • 張浚との間に呂祉の讒言などから隙が生じ、劉光世の罷免をめぐり浚と意見が対立。浚が観文殿大学士に去ると、鼎は尚書左僕射同中書門下平章事兼枢密使に再任、四官を進めた。
  • 淮西で王徳・酈瓊の対立から呂祉が殺され瓊が偽斉に降った事件でも動じず対処し、淮西は無事に収まった。金人の和議申し出に対しては、群臣の反対を鼎が「梓宮及び母后のためやむを得ぬこと」と説得して収めた。
  • 秦檜との関係が悪化し、璩(建国公)の封事や蕭振の弾劾をめぐる対立から、檜に讒言され、忠武軍節度使・知紹興府に左遷。檜は餞別の宴を張ったが、鼎は一揖のみで去り、檜はさらに憾みを深めた。

晩年の弾劾と死

  • 王庶は鼎の功績(二度の宰相就任、親征の決断、建康鎮撫、回鑾の無事)を高宗に讃えた。王倫の使金に際して鼎の予見が正しかったことも判明した。
  • 車駕還臨安の際、内侍が竹栽を宮中に運んだのを鼎が艮嶽花石の弊の再現として叱責し、上は改容して謝した。戸部官の献金についても、鼎は「陛下も求めるべきでなく、某も献ずるべきでない」と諫めた。
  • 鼎は胡寅・魏矼・晏敦復・潘良貴・呂本中・張致遠ら数十人を推薦。清議に評される人材の登用と、趙霈・胡世将・周秘・陳公輔ら「妬賢長悪」の輩の排除を上に求めた。
  • 秦檜の登用は当初鼎自身も推薦したが、後にその機穽の深さを見抜いた。浚が去ったのち鼎が召還されるも、檜は謝祖信に鼎の「かつて張邦昌の偽命を受けた」との弾劾をさせ、節を奪われた。さらに都督府の銭十七萬緡を乾没したとの疑いで興化軍に謫され、漳州、さらに清遠軍節度副使潮州安置と処分が重ねられた。
  • 潮州で五年間、門を閉ざし客を謝絶し時事を口にしなかったが、中丞の詹大方に賄賂を受けたと誣告され、吉陽軍に移された。謝表に「白首何ぞ帰らん、余生の幾ばくもなきを悵む。丹心未だ泯びず、九死すとも移らざるを誓う」と記し、檜はこれを見て「この老いぼれ、なお強情だ」と評した。
  • 吉陽で三年、深く潜居し門人故吏も敢えて通問せぬ中、広西帥の張宗元だけが時に醪米を送った。檜がこれを知り本軍に月ごとの存亡を報告させると、鼎は子の汾に「檜は必ず私を殺そうとするだろう。私が死ねば汝らに患いは及ばぬ」と語り、あらかじめ墓中の石記に自らの経歴を記し、銘旌に「身は箕尾に騎りて天上に帰り、気は山河を作して本朝に壯んなり」と書かせ、絶食して死んだ。紹興十七年のことで、天下がこれを聞いて悲しんだ。
  • 翌年、帰葬の詔が下り、孝宗即位後に忠簡と諡され、太傅を追贈、豐国公を追封された。高宗の祔廟に際し鼎は配享とされ、孫十二人が擢用された。
  • 鼎の文章は渾然と天成し、高宗の軍国機事の草案の多くを手掛けた。奏表疏雑詩文二百余篇を『得全集』として世に行われ、中興の賢相の中で鼎が第一に称された。

史論

  • 謀国用兵の道には、機を捉えて速やかに功を立てるべき場合と、力を養い時を待って初めて事をなせる場合とがあるが、いずれも忠にほかならない。金人が二帝を北行させ宗社が主を失ったとき、宗澤の一呼で河北の義旅数十万が響くように集まったのは、澤の忠忱義気が人心を動かしたためである。もし澤が齟齬なく勇往直進できていれば、二帝を還し旧都を復するのは指顧の間であったろう。黄潜善・汪伯彦の嫉能により澤はその志を果たせぬまま憤死した。これは悲しむべきことである。
  • 趙鼎が宰相となった頃には南北の勢は既に定まっていた。両敵が対峙する中で明白な機がなければ力を養って時を待つべきであり、それを誤れば徒に危困の辱めを招く。鼎の国政は専ら根本を固めることを先とし、根本が固まった後に敵を図り讎を復すことを目指した。惜しくも秦檜に忌まれ遠くに斥逐され、志半ばで果てたのは君子の最も痛心とするところである。
  • 澤の臨終には「河を過れ」と三度呼び、鼎は自ら銘旌に「気は山河を作して本朝に壯んなり」の語を記した。二臣の愛君憂国の心は、生死禍変の際にあってもなお変わらなかった。それにもかかわらず高宗は憸邪の言に惑わされ、任免を軽々しく行った。善を善として用いることができなかったことは、千載の後の忠臣義士も撫巻扼腕するところであり、国の不振はここに由来すると言えよう。