宋史卷三百六十 列傳第一百十九 宗澤

出自と生い立ち

  • 宗澤、字は汝霖、婺州義烏の人。母の劉氏は大雷電の光が身を照らす夢を見た翌日に澤を生んだという。幼くして豪爽・大志を持ち、元祐六年の進士に登第。廷対で時弊を極言したため考官に憎まれ末甲に落とされ、大名館陶尉に補された。
  • 呂恵卿の檄で邑令とともに河埽を視察することとなったとき、澤はちょうど長子を喪ったばかりだったが檄に応じてただちに出発。恵卿は「国のために家を忘れる者」と評した。上書して厳冬の役夫使役の緩和を進言し、これが用いられた。

地方官としての実績

  • 衢州龍游令のとき学問振興のため庠序を建て師儒を招いて講論し、以後科挙及第者が相次いだ。晋州趙城令では県の格上げを願い出たが認められず、「太平の時には憂いなしとしても、いつか有事の日に私の言を思い出すだろう」と述べた。
  • 萊州掖県では部使者の牛黄調達命令に対し、疫病流行時に牛の胆汁を強いて取れば民を苦しめるだけだと反対し、自ら責任を負って上聞した。登州通判では官田数百頃の税を免除し、民からの横取りを止めさせた。朝廷が女真と結び契丹を挟撃する謀を進めていることを知り、「天下はこれより多事となろう」と親しい者に語り、東陽に隠棲した。
  • 靖康元年、中丞の陳過庭らが澤を薦め、和議使に任じられた。「この行、生きて還らぬだろう」と語り、屈節して北庭に赴くくらいなら死を選ぶという心境であった。議者は澤の剛方不屈が和議を害することを恐れ、遣使は取り止めとなった。

知磁州から大元帥府へ

  • 太原失陥後、両河の官はみな託して赴任を避けたが、澤は「禄を食んで難を避けぬ」と単騎で就任。荒廃した磁州の城壁を繕い隍池を浚え義勇を募って固守の計を立てた。邢州・洺州・磁州・趙州・相州の各州に精兵二万を蓄えれば、一郡が攻められても四郡が応援でき、事実上十万の兵を持つに等しいと上言した。
  • 金軍が磁州城を襲った際、澤は自ら甲を着けて登城し神臂弓で撃退、追撃して数百級を斬った。康王(高宗)が再び金へ使いする際、澤は「肅王は一度行って戻らなかった。今回も金の詭計だから行くべきでない」と諫め、康王は相州に引き返した。
  • 澤は副元帥に任じられ、康王起兵に従い、李固渡での金軍を大破。康王が大元帥府を開き諸道の兵を大名に集めると、澤は氷を渡って河を越え、京城の危急を訴えたが、汪伯彦らに阻まれ、府中の謀議に与れなくなった。

開徳での連戦連勝

  • 靖康二年正月、澤は開徳に至り十三戦全勝、諸道の兵に京城救援を呼びかけたが、趙野・范訥・曾楙ら三人はいずれも澤を「狂」として応じなかった。
  • 澤は孤軍で進み、都統の陳淬が「敵は勢い盛んゆえ軽挙すべからず」と諫言すると澤は怒って斬ろうとしたが、諸将の懇願で許した。淬は進撃して金軍を破り、澤は続けて開徳・濮州・衛南などで金軍を連破。
  • 敵軍が十倍する状況で、澤は「今日は進むも退くも死。死中に生を求めるほかない」と兵に告げ、士卒は決死の覚悟で戦い、数千級を斬って金軍を大敗させた。夜襲を警戒して軍を移すと、金軍は空営を見て驚き、以後澤を恐れて出兵しなくなった。

張邦昌への対応と高宗即位の勧進

  • 金人が二帝を北行させると聞き、澤は軍を進めて帰路を遮ろうとしたが勤王の兵は集まらなかった。張邦昌の僭位を知り討伐を図ったが、大元帥府から「移師して観変せよ」との命があり、澤は康王に「服赭袍張紅蓋の者(張邦昌)を討つべし」と復書し、民心を安んじるため使者を諸路に遣わすことを求めた。
  • また「剛正に近づき柔邪を遠ざけ、諫諍を納れ諛佞を拒み、恭倹を尚び驕侈を抑え、憂勤を体して逸楽を忘れ、公実を進めて私偽を退ける」ことを説き、勧進の上書を重ねた。康王は南京にて即位。澤は入見して興復の大計を陳べ、李綱と共に対面し国事を論じ、涙を流して慷慨した。

知襄陽府から知開封府へ

  • 龍図閣学士・知襄陽府に任じられた頃、金が割地を議していると聞き、澤は「天下は太祖太宗の天下、河の東西や陝の蒲州・解州を割くべきでない」と反対する疏を上げた。年六十九であった。開封尹欠員に際し李綱の推薦で知開封府に転じた。
  • 金軍が河上に留屯し、京城の楼櫓は荒廃、兵民雑居し盗賊が横行していたが、澤は威望をもって着任し、まず賊を庇う者数人を捕え誅殺、「盗みは軽重を問わず軍法に従う」と令し、盗賊は鎮まった。
  • 河東の巨寇・王善が七十万の衆を擁して京城を窺うと、澤は単騎で善の陣に赴き、「朝廷が危難の時にあなたのような人物がいれば敵患などない」と泣いて説き、善は感泣して降った。楊進(没角牛)・王再興・李貴・王大郎らの群盗も澤の招諭に応じて招降された。

金使拘留事件

  • 澤は上疏し、京師の物価が平時同様に戻ったことなど、士民が帰京を望んでいると訴えた。延康殿学士・京城留守兼開封尹に任じられ、金が「偽楚に使す」と称して開封に人を遣わした際、これを覘察の目的と見抜いて拘留・処刑を求めたが、有詔により別館に置かれ手厚く待遇された。
  • 澤は国家が二百年の太平で兵革に慣れず、金の詭計を見抜けぬことを憂い、金使を斬ってその姦を破るべきと重ねて上疏したが、高宗の親札により結局その使いは釈放された。尚書左丞の許景衡はこれに関して澤を強く弁護した。

防備の充実と岳飛の登用

  • 澤は真定・懐衛間の金軍の脅威に備え、河を渡って諸将と謀議し、京城四壁に招集の兵を置き、城外に堅壁二十四所を築いて連珠砦とし、陝西・京東西の忠義民兵を糾合した。
  • 秉義郎の岳飛が犯法して刑に処されようとしたとき、澤はその才を見抜いて五百騎を授け功で罪を贖わせた。飛は金軍を大破して統制に昇進、これにより名を知られるようになった。

再三の還京上疏

  • 澤は高宗が南都に留まることへの不安を訴え、汴京に還るべきと繰り返し上疏。「京師は天下の腹心、両河は未だ靖まらぬが一手臂にすぎない。今これを棄てれば腹心も併せて棄てることになる」と論じ、景徳年間の澶淵の役で王欽若・陳堯叟が遷幸を勧めたのに対し寇準が親征を主張して成功した故事を引き、「寇準に及ばぬまでも」と自らを比した。
  • 五事を条上し、うち一つは黄潜善・汪伯彦の南幸賛成を批判するものだったが、澤の建議はしばしば三省枢密院で潜善らに抑えられ、「狂」と笑われた。

金将兀朮との攻防

  • 金将兀朮が河を渡り汴京を攻めようとした際、諸将は河梁を断って固守を提案したが、澤は「昨冬の敵の来襲は河梁を断ったためだった」として部将の劉衍・劉逹に敵勢を分散させ、河梁を保護させた。金軍は夜に河梁を断って逃げた。
  • 二年、金軍が白沙に迫り都人が震恐する中、澤は客と囲碁を打ちながら「劉衍らが外にいる以上必ず防げる」と平然とし、精鋭数千を敵の後方に回して伏兵を起こし挟撃、金軍を大敗させた。
  • 金将黏罕と対峙した際、部将の李景良・閻中立・郭俊民を遣わしたが敗れ、中立は戦死、俊民は降伏、景良は逃亡。澤は景良を捕らえて斬り、俊民が金将とともに降伏を勧める書を持って来ると、澤はこれを罵倒して斬った。仲祖については脅従とみなし赦した。
  • 部将の張撝は劉衍救援に赴き奮戦して戦死。澤は王宣に五千騎を与え救援させ、大戦の末に金軍を撃退した。以後、金軍は東京を再び侵さなくなった。

勤王軍擁護の疏

  • 山東で盗賊が起こると執政は「義師を名目にした者が多い」として勤王の命令を止めようとしたが、澤は「これまで数千里を越えて勤王した者たちが大臣の見識不足で困窮し、盗賊となった者もいるが、それは勤王者の罪ではなく処置の誤りである」として、詔を出せば忠義の心が瓦解すると諫めた。
  • 遼の遺臣・王策を捕えた際、澤はその縛を解いて「契丹はもと宋の兄弟の国、今女真が我が主を辱め契丹の国も滅ぼした。共に協力して雪辱すべし」と説き、策は感泣して協力を誓い、敵情を澤に詳しく伝えた。澤は諸将に「忠義の心を協せて敵を勦滅し二聖の還りを期そう」と大挙の計画を述べ、諸将は泣いて命に従った。

薨去

  • 澤は疏を重ねて南幸に反対し、資政殿学士に任じられ、子の穎を朝廷に遣わして「今、伊洛を収復し金の兀朮は河を渡って敗れ、河東河北の山砦義民は官兵の到来を待望している。中興の兆しは既に見えている」と訴えた。また、儀真での水戦教習の詔を「楚人城郢」の故事に喩え、これでは中原不守を天下に印象づけると批判した。
  • 世興・世隆兄弟の帰順に絡む事件では、澤は反逆の兆しを見せた世隆を斬り、弟世興には奮起を促し、後に世興は金の攻撃を撃退した。丁進・李成・楊進ら数十万から百万の兵力を擁する諸将が皆帰還・渡河討敵を願っていることを訴え、還京の好機と説いた。
  • 上皇の御所たる龍徳宮に対し淵聖皇帝(欽宗)の宮室がないことを憂い、寶籙宮の改修を求めるなど、孝弟の教えを身をもって示すべきと奏した。上は還京の詔を発したが、澤の前後の還京上奏二十余は潜善らに抑えられ続けた。
  • 憂憤のあまり背に疽を発病。諸将が見舞うと、澤は「二帝の蒙塵によりここまで憤りを募らせた。汝らが敵を殲滅できれば私は死んでも恨みはない」と語り、諸将は皆涙して奮起を誓った。翌日、風雨が昼をも暗くする中、澤は家事について一語も語らず、ただ「河を過れ」と三度呼んで薨じた。都人は号泣した。
  • 遺表もなお還京を勧めるものであった。贈観文殿学士通議大夫、諡は忠簡。澤は質直で義を好み、親故の貧しい者を多く扶助しながら自らの生活は質素であった。「君父が艱難の折、臣子が安居美食してよいはずがない」と常に語っていたという。

子・穎のその後

  • 澤は群盗を招集し兵を蓄え糧を儲え、諸路の義兵を結び燕趙の豪傑と連携し、渡河して中原恢復を果たそうとしていたが、志半ばで薨じた。有識者はこれを恨んだ。
  • 子の穎は戎幕にあって士心を得ていたが、澤の薨去後まもなく将士の十五が去った。都人は穎による継承を望んだが、朝廷は既に杜充を留守に任じており、穎はその判官となった。充の施策は澤の方針に反して人心を失い、穎の諫言も容れられず、穎は服喪を理由に去った。以後豪傑は用いられず、群集していた者も去って盗賊となり、中原は再び守られなくなった。穎は最終的に兵部郎中で官を終えた。