宋史卷三百五十九 列傳第一百十八 李綱下

李綱(本巻は下編)。南宋初の名臣で、高宗朝において湖広宣撫使・観文殿学士として辺防・攻守の策を繰り返し上奏したが、多くは用いられなかった。紹興十年、享年五十八で没した。

年表(7件)
  • 紹興二年観文殿学士・湖広宣撫使兼知潭州として群盗を平定し荊湖経営策を上言する
  • 紹興四年金・偽斉の来攻に備え防禦の三策を上奏する
  • 紹興五年攻戦守備・綏懐の方策を問われ、まず守備を固めるべきと献策する
  • 紹興六年淮西の軍変を受け朝廷の措置の失当を指摘し張浚を擁護する
  • 紹興八年王倫が金より帰還すると、金の要求の危険性を上疏して警告する
  • 紹興九年知潭州荊湖南路安撫大使への任命を固辞するも認められず就任する
  • 紹興十年薨去する。享年五十八

湖広宣撫使としての防衛構想(紹興二年)

  • 紹興二年、李綱は観文殿学士・湖広宣撫使兼知潭州となった。当時、荊湖・江湘の間には流民や潰卒が群盗となって数万規模で横行していたが、綱はこれらをことごとく平定した。
  • 綱は上言し、荊湖は国の上流にあたる要地で数千里に及び、諸葛亮のいう「用武の国」であると説いた。朝廷が東南を保ち西北を制するには、鼎州・澧州・岳州・鄂州から荊南にかけて重兵を屯田させ、四川と襄漢の連絡を保つべきであり、そこから中原恢復の計画も進められると論じた。
  • しかしこの議は実行に移されぬまま、諫官の徐俯・劉裴の弾劾により、綱は罷免され提挙西京崇福宮に左遷された。

金・偽斉来攻への防禦三策(紹興四年)

  • 紹興四年冬、金と偽斉が来攻。綱は防禦の三策を上奏した。
  • 上策:偽斉が全軍で南下すれば境内は手薄になるはずなので、不意を突いて頴昌を急襲し敵の本拠を脅かせば、必ず動揺して帰還するのでこれを追撃すべし。
  • 中策:江上に駐蹕し上流の兵を召集して声勢を助け、金軍の南渡を思いとどまらせた上で重兵を要害に進め、糧道を断って敵の撤退を待って攻討を議すべし。
  • 警戒すべき策:親征を名目に「順動」と称して実は退避を図れば、兵は潰散し敵に乗じられ、州県は望風して崩れ、収拾がつかなくなる恐れがある。
  • 詔により、この上奏は三省枢密院に付され施行された。

攻戦守備・綏懐についての奏(紹興五年)

  • その頃、韓世忠は淮楚間でしばしば金軍を破っており、劉光世・張浚に督戦の命が下り、車駕も江上に進発して労軍した。
  • 紹興五年、朝廷が攻戦守備・綏懐の方策を問うと、綱は「敵が退いたことを喜ばず、讎敵いまだ報いざるを憤りとせよ。東南の安泰に満足せず、中原未復・神州陥落を恥とせよ。諸将の勝利に浮かれず、軍政未修・士気未振・強敵の潜逃を憂いとせよ」と奏した。
  • また、敵退却後にただちに大挙するのは軽率であり、まず守備を固め軍政を修めてから攻討を議すべきだと論じた。漢の高祖が関中を、光武帝が河内を、粛宗が霊武を先に確保して大業をなした先例を挙げ、東南を根本としつつも自固の計をまず立てるべきだとした。
  • 守備の要として、淮南・荊襄を東南の屏蔽とし、六朝が長く江左を保てたのはこの地に強兵巨鎮を置いたためだと説く。淮の東南および荊襄に三大帥を置き重兵を屯し、偏師を分遣して支郡を守り、戦艦水軍を整えて上下の連絡を図るべしとした。
  • 駐蹕の地としては建康が最も適し、城池・宮闕・官府・営壁を整えて巡幸に備えるべきだとも進言した。西北の民には土地・爵賞を与えて招撫し、内応者を得るべきだとも述べた。

六事の上奏

  • 綱はさらに、信任輔弼・公選人材・変革士風・愛惜日力・務尽人事・寅畏天威の六事を条陳した。
  • 信任輔弼:君臣が至誠をもって久しく任じ、小人に離間させぬこと。
  • 公選人材:卓抜な人材こそ艱難の時に必要であり、讒言によって埋もれさせぬこと。
  • 変革士風:奔競の風を改め、風聞による弾劾には実を確かめてから言うべきこと。元祐の大臣(司馬光ら)が姦党とされた靖康の変の遠因を例に引く。
  • 愛惜日力:中興の業は積み重ねが必要であり、簿書の細務にとらわれず、攻討防守の大計に留意すべきこと。
  • 務尽人事:人事を尽くして天命を待つべきこと。
  • 寅畏天威:熒惑失次・太白昼見・地震水溢・久陰久雨・盛夏の寒気・正月朔日の日食などの天変は、陛下への戒めであり、至誠をもって応じるべきこと。
  • 疏は上奏され、褒諭の詔とともに江西安撫制置大使兼知洪州に除された。

淮西の変と張浚擁護(紹興六年)

  • 紹興六年、召されて内殿に対し、用兵の失四条・処置未善五条・預備すべき三条・善後二条を述べた。
  • 宋軍と金・偽斉軍が淮泗で半年対峙した際、綱は驍将を淮南から派遣し岳飛と挟撃すべきと説いた。その後、劉光世・張俊・楊沂中が淮肥で偽斉軍を大破。車駕は建康に進発した。
  • 綱は勝利に驕らず戦守の備えを飭むべきと諫め、政事を修め賞罰を明らかにし、人材を招き士気を鼓すべきと論じた。
  • 淮西で酈瓊が全軍を挙げて劉豫に叛くと、綱は朝廷の措置の失当十五事を指摘して上奏。張浚はこれにより引責し辞相したが、論者は漢の武帝が王恢を誅した故事に比した。綱は「張浚を厳罰すれば智謀の士は口を閉ざし、忠義の士は憤りを発する場がなくなり、将士は解体し州郡は堅城を失う」として、浚の措置は失当だが忠国の心は憫むべきとして寛大な処置を求めた。

車駕平江幸への諫止

  • 車駕が平江へ幸そうとした際、綱は平江は建康に近く、あえて退避の名を負う必要はないと諫めた。楚漢の滎陽・成皋の対峙で高祖が退かなかった故事、官渡の戦いで曹操が退かなかった故事を引き、一叛将の故に望風して退くべきでないと説いた。

王倫使金と金の要求への警戒(紹興八年)

  • 紹興八年、王倫が金より帰還すると、綱は上疏し、朝廷が金使を「詔諭江南」の名目で迎えたことを批判。金と宋は仇讐の関係であり和議はありえぬはずだが、二聖を憂えるがゆえに屈して和を求めてきた経緯を説く。
  • 今回の金の使いの目的として、①降詔書を陛下に受けさせること、②赦文を郡県に班示させること、③臣を称し金の号令に従わせること、④歳幣を求め困窮させること、⑤江を境とし淮南・荊襄・四川の割地を求めること、の五点を予測し、一つでも従えば大事は去ると警告した。金は変詐に富み、要求は際限なく続くだろうと述べ、陛下は聖意を留め軽々に許諾せず、群臣に利害を講明させるべきだと諫めた。
  • この疏は世論と合わなかったが、高宗は「大臣たる者はかくあるべし」と評した。

晩年と薨去(紹興九年)

  • 紹興九年、知潭州荊湖南路安撫大使に除せられたが、綱は力めて辞退し、漢の文帝が季布を召してすぐ罷した故事を引いて自らの進退の軽重を語った。しかし奏を重ねて認められ、次年(紹興十年)に薨じた。享年五十八。
  • 訃報に上は深く悼み、使者を遣わして賻贈し、家族を撫問して喪葬の費用を給し、少師を追贈、親族十人に官を与えた。
  • 綱は天下の望を一身に負い、用いられずとも忠誠義気は遠近に知られ、宋の使者が燕山に至るたびに金人は必ず李綱・趙鼎の安否を尋ねたという。

著作

  • 綱には『易傳』内篇十巻・外篇十二巻、『論語詳説』十巻、文章歌詩奏議百余巻のほか、『靖康傳信録』『奉迎録』『建炎時政記』『建炎進退志』『建炎制詔表劄集』『宣撫荊廣記』『制置江右録』がある。

史論

  • 李綱の賢をもって靖康・建炎の間に力を尽くさせ、誰もこれを妨げなければ、二帝は北行に至らず、宋も南渡の偏安に至らなかったであろう。君子を用いれば安く、小人を用いれば危ういのは不易の理である。
  • 人情は安を喜び危を嫌うものだが、綱は在相わずか七十日で、その献策はほとんど用いられなかった。かえって黄潜善・汪伯彦・秦檜の言を信じて任じ、なお及ばぬかのように振る舞った高宗の見識は、人と異なっていたと言うべきである。
  • 綱は屡々斥けられても忠誠は少しも貶ぜず、用不用によって語黙を変えず、赤子が母を慕うように、怒られてもなお泣きながら裳裾を引いて従うようであった。
  • 中興の功業が振るわなかったのは、君子であれば天のせいにするだろうが、綱の心は諸葛孔明の用心と異ならないと言えよう。