宋史卷三百五十七 列傳第一百十六 梅執禮

生涯

  • 字は和勝。婺州浦江の人。進士及第、常山尉を経ず勅令删定官・武学博士、大司成強淵明の推挙を固辞し「人の言で得た地位は人の言で失う」と述べる。
  • 軍器・鴻臚丞・比部員外郎として茶券の不正請求(三百万銭)を見抜き摘発、度支・吏部を経て国子司業兼資善堂翊善、左司員外郎から中書舎人・給事中。
  • 前執政の林攄の復職請願を退け、孟昌齡の鄆州での不当な家屋没収に反対、地方への強制労役の弊害を上奏し是正、楊戩・張佑の不当な要求を却下、禮部侍郎として王黼の奢侈な宴を戒める詩を贈り不興を買う。
  • 顕謨閣待制として蘄州・滁州知事、塩の過剰課税を批判し二十万の減額を実現し民に徳とされる。欽宗即位で鎮江府知事から翰林学士・吏部尚書・戸部尚書、金軍の攻撃で禁内費用の管理体制を整備、小黄門の不正な財務指示を摘発。
  • 金軍による京都包囲時、帝に親征を勧め太上皇・皇后・皇太子の避難を進言するが用事者に阻まれる。開封陥落後、金軍の莫大な金帛要求に対し、程振・陳知質・安扶と共に「軍法をもって根絶やしの徴収を拒否すべき」と協議、実際に民の困窮を訴え譲歩を引き出すが、宦者の讒言で金帥の怒りを買い、四人が杖罰・処刑される(靖康二年二月)。
  • 車駕再出時、宗室の子昉・呉革らと共に万勝門を奪い金軍陣営を襲撃する計画を立てたが、王時雍・徐秉哲が范瓊を通じて密告し失敗、四十九歳で処刑される。高宗即位後、通奉大夫端明殿学士を贈られ、議者が薄いとして資政殿学士に加贈された。