生涯
- 字は伯起。饒州樂平の人。若くして才能に優れ太学の名声を得る。徽宗の太学行幸で諸生右職として除官、辟雍録・太常博士から京東西路学事提挙、鄒の孟子廟建立と公孫丑・万章・楽正克らの配食を建議。
- 京西常平提挙から膳部員外郎・監察御史・辟雍国子司業・左司員外郎兼太子舎人、太子の受爵儀礼の不備を指摘し太子に称賛される。
- 方臘の乱に際し王黼に弊政改革を進言するが忌避され、太子の強い推薦で給事中に抜擢、書命に長けることから中書舎人に転じるが、王黼と対立し馮熙載への讒言を拒否したため党人として罷免される。
- 三年後復帰、靖康元年吏部侍郎として欽宗に「柄臣不和・詔令朝令暮改・和戦論の不統一」を痛烈に批判、開封尹として厳罰主義への反対(死刑の慎重な適用、亡命卒の軍への編入)を実現。
- 金騎が郊外に迫った際、何㮚に対策を進言するが用いられず、五十七歳で難に遭う。金軍撤退後、甥の程庭訪がその首級を持ち帰り葬る。かつて王黼が沈積中を使い燕地図を作らせようとした際、振は禍を戒めたが積中は聞かず結局それが原因で振の死を招いたことに人々は痛んだ。
- 太子への進言(孔子・老子の「未然に備える」思想)が徽宗の宦官抑制策のきっかけとなったが、楊戩らの讒言で家令楊馮が誅殺され太子の言も廃された経緯も伝わる。開封尹在任中、龍徳宮の梁忻獄の冤罪防止に尽力。高宗即位で秩七等を進め子・親属三人を任官、端明殿学士を贈られ、端平初、曾孫程東の請願で諡「剛愍」を賜る。同時に死んだ礼部侍郎陳知質は伝が失われ、給事中安扶は父安燾の伝に付記される。