宋史卷三百五十六 列傳第一百十五 周常

生涯

  • 字は仲修。建州の人。「礼記檀弓義」の著作を王安石・呂恵卿に称賛され国子直講に補せられ太常博士。養親のため揚州教授を求め五十歳前に致仕。
  • 御史中丞黄復の推薦で太常博士に復帰、元符初、崇政殿説書を兼任、著作佐郎として祖宗諸陵の副葬品が質素であるべきとの原則(塗金・服飾のみで珠玉を用いない)を守るよう上疏、裕陵から宣仁太后の寝宮までの金珠使用を景霊殿に収蔵し遺訓に従うよう求める。
  • 起居舎人に抜擢、鄒浩の処罰の際に講席で救済を論じ郴州酒務監に左遷。徽宗即位で国子祭酒・起居郎に召還、君主の求治には尚志が第一だが富貴逸楽に溺れ諂諛に蔽われれば志を失うと諫言、元祐の法度には得失があり人材を偏って捨てるべきでないと主張。
  • 本朝の記注官の多くは諫官を兼ねてきたとし、記録の重要性を神宗朝の先例に基づき論じ、暑さを理由に記録を怠る制度化に反対して阻止。中書舎人・礼部侍郎を経て蔡京の専横を容れられず宝文閣待制として湖州知事、婺州で落職、集賢殿修撰に復し六十七歳で没。

史論③

  • 徽宗は治世を怠り嬖倖が朝柄を塞ぎ、権姦に鳴らぬ者は昇進し次第に腐敗が習いとなった。崔鶠・張根・任諒・周常は気節高く時弊を的確に指摘し直言を憚らなかったが、結局讒言に勝てなかった。張根・周常は職外で没し、崔鶠・任諒は用いられて間もなく病に奪われた、悲しむべきことである。
  • 金兵が挙兵し郭薬師が叛いてもなお朝廷はこれを知らず、まして禍の兆しを事前に見通すことなどできようか。任諒の「狂言」とされた予言も、実は当然の帰結であった。