宋史卷三百五十六 列傳第一百十五 任諒

生涯

  • 字は子諒。眉山の人、汝陽に移る。九歳で父を失い、母の再婚を諫めて阻止した逸話がある。学問に励み十四歳で郷書に及第、河南戸曹として枢密曾布に兵書を献じるが意見が合わず去る。
  • 布が相となっても諒は李徳裕の故事を引いて規諫の書を送り布の怒りを買うが、蔣之奇・章楶の推薦で編修官に、布が奏を差し止め懐州教授に。徽宗が新学碑の文章を評価し提挙夔路学事に抜擢。
  • 京西・河北・京東転運判官として河北根本籍(戸口・官吏・出納の詳細台帳)を編纂、張商英に「天下の部使者の最」と評される。京東刑獄提点として梁山濼の漁民出身の盗賊を戸籍管理と船舶登録で取り締まる。
  • 陝西転運副使として、降人李訛哆の裏切りを察知し定辺への輸粟で先手を打ち、訛哆の攻撃を撃退。江淮発運使として蔡京の直達綱の弊害(乾没横領)を上奏し京の怒りを買う。
  • 汴泗の大水害時、泗州の堤防決壊寸前を自ら陣頭指揮で防ぎ民を救うが、蔡京に「溺死千計」と誣告され削籍、後に冤罪と判明し右文殿修撰・陝西都転運使・徽猷閣待制・直学士に復帰。
  • 童貫の銭法改革(鉄銭と銅銭の等価化)に反対し六路への害を指摘し中止させ、龍図閣直学士として京兆府・渭州を知り、母憂で去るが宣和七年上清宝籙宮提挙・国史編修に復帰。
  • 燕への出兵を巡り「契丹の滅亡は必然だが名分なき出兵は避け、耶律氏の存続を認め漸進すべき」と宰相に書簡、郭薬師の反逆を予言するが「病狂」と評され嵩山崇福宮提挙に出される。金軍の燕山侵攻・郭薬師の叛降が的中し再び京兆知事に起用されるが間もなく五十八歳で没。