生涯
- 字は楚老。鄭州の人。進士及第、浦江令として郡の悪吏の租税滞納を取り締まり評判を得る。長沙県知事時代、寡婦が七年間養育した継子を巡る親族間の争いを、年齢の歯の生え変わりから真偽を見抜いて裁定。
- 熙寧中、京西常平・陝西河北刑獄提点・京西転運副使を歴任、屯田員外郎として入朝。妹の婚姻問題で御史に弾劾され罷免、河北転運副使として黄河治水(迎陽・孫村の水路)を巡る議論に関与するが後に非とされ罰金・直祕閣として延安府知事、西夏との戦いで功を挙げ龍図閣を進み、戸部・吏部侍郎、戸部尚書、永興軍・成都・眞定・河南府・鄭州知事を歴任、龍図閣直学士。
- 哲宗の廟入りに際し東夾室への祔祀を求めた議論で処分を受けるが後に復職、八十三歳で致仕・没。吏として六十年、才幹は明鋭だが操守に欠けると評された。
- 子の譓:字は智甫。進士及第、紹聖間章丘県知事。陝西の麦の平償政策を巡り曾布に「刻薄」と評され対象から外される。河東転運判官・陝西を歴任、母憂で去るが永泰陵造営に召還され、諫官任伯雨の反対にもかかわらず職務を継続、直龍図閣として熙州知事となり蔡京の河湟復興策に反対、光禄卿を経て虢州知事に左遷。
- 陝西転運使として京兆の麦価高騰対策で民との和市を強行、府尹徐処仁と対立し処仁を失脚させ自ら顕謨閣待制に代わるが、鄜延帥錢昻の弁護で処仁の名誉は回復し、逆に譓は永州に左遷。のち鄜延・永興を歴任、蟾芝を偽造して献上した偽罔上事件で貶謫、三年後に復官し数郡を歴任して没。