宋史卷三百五十五 列傳第一百十四 呂嘉問

生涯

  • 字は望之。蔭補出仕。熙寧初、条例司に引かれ戸部判官として諸司庫務を管掌、連竈法を酒坊に実施し年十六万緡を節約。
  • 王安石が魏継宗の議を用い京城に市易務を設置した際、嘉問を提挙とし十三事を建議、律外での兼併家からの利取を求めるが神宗はこれを退けた。安石は嘉問を擁護し続けたが、神宗は「嘉問が擾民している」と安石に指摘、免行銭の些末な収取が国体を損なうとも批判。安石は詭弁を弄し神宗を「叢脞(こまごまと事を細かくする)」と評したことすらあった。
  • 曾布との対立、市易司の隷属を巡る薛向との軋轢、魏継宗の告発による嘉問の不正蓄財の露見、神宗と安石の政策論争の詳細な経緯が記録される。安石罷免時、嘉問は泣いてすがったが安石は呂恵卿への引き継ぎを告げる。
  • 恵卿執政後、曾布は処罰され嘉問も常州知事に左遷、安石再相で江寧府知事に至るが罷免後、転運使何琬の弾劾で潤州に左遷、吏部郎中・光禄卿を経て市易法の弊害(本銭千二百万緡のうち利息が本を超え、物貨は粗悪化した)が指弾され三秩削られ淮陽軍知事に落とされる。
  • 紹聖中、宝文閣待制・戸部侍郎・直学士として開封府知事に復帰、章惇・蔡卞に専附し多くの無実の人を殺し証拠を焼却、鄒浩の南遷にも関与し懐州知事に転じるが、徽宗朝で旧悪が暴かれ分司南京・光州・郢州と累貶。婿の劉逵・蹇序辰、死友鄧洵武らの支援で復帰し龍図閣学士・大中大夫として七十七歳で没、資政殿学士を贈られた。
  • かつて従祖父の呂公弼が新法批判の上奏文を嘉問から見せられ告発したため公弼は左遷され、呂氏一族から「家賊」と呼ばれた経緯があり、呂氏の列伝には合わせて収録されていない。