宋史卷三百五十五 列傳第一百十四 楊畏

生涯

  • 字は子安。もと遂寧の人、父の代に洛陽へ移住。幼くして孤児となるが学を好み、党友の勧めで進士第を獲得するも赴任せず、王安石の著作を学び呂恵卿の下で鄆州教授。
  • 西京国子監教授、舒亶の推挙で監察御史裏行、侍従の賢否監督を巡る建言、舒亶の学士院厨銭窃盗事件では「過失は罪と言えない」と弁護し宗正丞に左遷、䕫州路刑獄提点。
  • 元祐初、司馬光への面従腹背が露見、呂大防・劉摯との親密関係を利用し工部員外郎・監察御史・殿中侍御史を歴任、大防を助けて劉摯を攻撃する十事を上奏、梁燾・王巖叟・劉安世・朱光庭を摯の死党と断じたが救援不成功、摯罷免。
  • 蘇頌が相となると畏はこれも攻撃、頌罷免。蘇轍の入相を望んだが范純仁が右僕射となり、畏は純仁も攻撃、百僚の顰蹙を買う。
  • 侍御史として辺疆・河事・役法・内外官政の四大未治事項を指摘、御史選任制度改革を建議。宣仁太后崩御後、呂大防が畏の諌議大夫起用を望むも范純仁が反対、大防は禮部侍郎に留めるが大防が宣仁太后山陵使となると畏は背き熙寧・元豊政策の称揚と王安石学術への転向を表明、章惇・呂恵卿の登用を薦める。
  • 紹聖の進士廷試で元祐派の答案を意図的に下位に置き、章惇入相後は吏部で自派を固めようとするが、大防・蘇轍逐出に加担した過去が露見し疎まれ、真定府知事に左遷、「楊三変」と評される(元豊で進み元祐で顕り紹聖で遷る意)。
  • 元祐党籍に入るが復官と落職を繰り返し、蔡京への取り入りで元祐末の蘇轍批判を自白し寳文閣待制に復帰。政和二年、封禅嵩山の請願上疏を提出し諛佞を極めるが病を得て六十九歳で没。縦横の弁才で邢恕と親交、共に富貴を好んだが恕は疎放で失敗多く、畏の謀は概ね的中したが結局は禍を招いた。

史論①

  • 賈易は剛直で知られたが文彦博・范純仁を再弾劾し蘇軾・蘇轍を激しく非難した点で、真の剛直とは言い難い。董敦逸は元祐末に黄慶基と共に二蘇を誣告し紹聖の禍の発端を開き、紹聖では元祐諸臣を激しく攻撃、瑶華の冤罪では正義を貫けず、後に悔いて蔡京・蔡卞の過悪を論じたが焼け石に水であった。
  • 上官均は諫言が時弊を突いていたが、呂大防・蘇轍の再黜に加担した点で紹述に加担したと言える。楊畏は反復常なく縦横家も及ばぬほどで、紹述を唱えて哲宗の信を得た上、王安石の学に聖人の意ありと言うに至っては小人の無忌憚の極みである。
  • 来之邵は時の賢者を悉く攻撃し章惇・安燾・呂恵卿を登用させ、王安石への美諡を請い、悪事は止まず人の子を非嫡子と誣告し財産を奪おうとする所業に及んだ。葉濤は太学時代から汚名があり、王安石に諂ってその学を受け、曾布の推挙で元祐名賢の貶責制辞を執筆し醜詆を極め、善行があっても償えない。