生涯
- 字は文饒。開封の人。崇寧五年、諸生策試で蔡京の復権を予見した迎合的な答案を提出し第一に選ばれ、祕書省正字から起居舎人・中書舎人まで九か月で昇進。
- 給事中に進み蔡京に阿附、族譜を偽って京を叔父と称する醜態を演じた。八宝赦恩で元祐党人の一部を出籍する詔があったが薿は署名を拒み非難された。和州・杭州知事を経て顕謨閣待制。
- かつて陳瓘に取り入ろうとして拒絶され、瓘の子正彚を蔡京への不軌告発に利用し、瓘を陥れようとしたが果たせず(詳細は瓘伝)、宰相何執中と共謀し石悈に瓘を治めさせるも免れさせた。
- 御史毛注の弾劾、范柔中の官位昇進を巡る争いなど数々の讒言を弄し、翰林学士に遷るが妄議政事で罷免、洞霄宮提挙を経て建寧府知事、神霄宮建設で先んじて上奏し褒賞を受け学士承旨・礼部尚書に至るが権貴への阿附が露見し面詰される前に罷免。
- 御史から「太学では詭計を弄し、侍従では宰輔を脅し、門下では国法を私怨に利用し、郡守では監司を蔑ろにした」と評され単州団練副使房州安置に貶謫。宣和中に龍図閣直学士として杭州知事に復すが刑罰の濫用があり、方臘の乱後の駐留兵の絹反物取引を巡り、怒った兵卒が夜襲し州治を焼き殺されそうになるが、事の急迫を悟り□□(底本欠字)垣を越えて辛くも逃走、罷免され翌年徽猷閣待制で卒。
史論②
- 太宗以来、大科出身者は華要の職を経て十年足らずで宰相に至ることも多く、忠亮の名臣も多かった。治平年間に王安石が新法・科挙改革を行い、哲宗・徽宗の紹述の世は王安石の学に非ざれば高第を得られなくなった。葉祖洽が時相への迎合で第一に選ばれて以降、士風は大いに乱れ、人材は衰え、恩秩も薄くなった。
- 熙寧以降、宣和に至るまでの首選十八人のうち、何㮚・馬涓と本篇の五人(時彦・霍端友・葉祖洽・俞㮚・蔡薿)のみ伝が残るが、時彦・霍端友は狭量、葉祖洽・俞㮚・蔡薿は憸邪の小人であり、王氏の学の不正が人心を害し国家を覆すに至った様は甚だ痛ましい。孟子が邪説を弁じ人心を正した所以はまさにここにある。