生涯
- 字は明叔。無為の人。七歳で父を失い、母彭氏の紡績による家計で育つ。進士甲科、常州司法参軍。法令に疎いとして常に人情に合う裁定を心がけた。
- 元祐初、太常丞・兵部員外郎から左司諫。呂陶が張舜民事件を争わなかったことを弾劾、陶と対立し蘇軾兄弟・文彦博・范純仁を党附と非難、宣仁太后の怒りを買うが呂公著の擁護で懐州知事に出される。御史から謝表の文過を指摘され広徳軍に転じ、翌年江東刑獄提点、殿中侍御史として文彦博の至和建儲の議を批判、宣仁太后が史館に付し彦博は退官。
- 蘇轍が中丞となると易は嫌隙を避け度支員外郎に転じるが孫升に左遷と評され国子司業に転任、淮東刑獄提点を経て侍御史に復帰し、天下の五大危機(毀誉の混乱・政事の怠慢・財政の困窮・人材の廃棄・刑賞の不当)を長文で上奏。
- 蘇軾の杭州水害訴えを楊畏・安鼎と共に「姑息な誇張」と非難、給事中范祖禹に却下される。さらに蘇軾の詩・呂大防の制文を旧法批判とこじつけ、蘇轍の科挙答案も先帝誹謗と論難、議者に疎まれ宣州知事に出される。
- 京西転運副使・蘇州・徐州知事、直祕閣を加えられるが元符中に保静軍行軍司馬・邵州安置に累謫。徽宗即位で太常少卿・右諫議大夫に召されるが陳次升に曾布の客と論じられ刑部侍郎に降格、工部・吏部を経て宝文閣待制知鄧州、党籍に入り七十三歳で没。