宋史卷三百五十二 列傳第一百十一 耿南仲
耿南仲、開封府の人。東宮に十年仕え欽宗の侍読・詹事として重んじられたが、金の再侵攻に際し呉幵と共に割地を強く主張し主戦派と対立、和議路線を貫いた。高宗即位後は薄遇され配流先で没した。
経歴
- 耿南仲、開封府の人。両浙常平提挙から転運判官、広南東路・䕫州路刑獄提点、荊湖江西両路転運副使、戸部員外郎、辟雍司業。政和二年、太子右庶子として定王・嘉王侍読、太子詹事、徽猷閣直学士を歴任、東宮に十年仕えた。
- 欽宗の内禅時、病に伏す帝に代わり李邦彥の推挙で東宮の側近として耿南仲・吳敏が付き添い、欽宗即位後は資政殿大学士・簽書樞密院事、東宮旧臣として重んじられ尚書左丞・門下侍郎に進んだ。
- 金軍の再侵攻で三鎮割譲を巡り主戦派が多い中、耿南仲は呉幵と共に割地を強く主張、康王に同行を求められたが老齢を理由に子の耿延禧を代行させた。洛陽への金軍接近時に大臣派遣が議論され「事は自分が東宮で第一に仕えたのに吳敏・李綱が越権して先んじた」と不満を抱き、両者に反対して和議路線を貫き、戦守の備えを廃させた。
- 康王が相州にあった際、金使王汭を護送中に襲撃され、王汭は脱走、耿南仲も逃げ込んだ衞州で拒否されて相州へ逃れた。帝命で康王の挙兵を助け募兵の榜を掲げ人心を安んじた功もあった。二帝の北行後、高宗即位で薄遇され観文殿大学士・洞霄宮提挙に落ち、子の耿延禧も主和誤国の罪で落職。御史中丞張澂の弾劾で臨江軍居住に落とされ、帝は「南仲は淵聖(欽宗)を誤らせた、天下周知」と述べ、南雄への配流途上、吉州で卒した。建炎四年、観文殿大学士を追贈された。
王㝢――経歴(附伝)
- 王㝢、字は元忠、江州の人。父王易簡は資政殿大学士兼侍講。校書郎から著作佐郎・度支員外郎・国子司業を経て起居舎人・中書舎人、欽宗即位で給事中兼邇英殿経筵侍講、吏部侍郎・礼部尚書・翰林学士に至った。
- 康王の対金使者として尚書左丞に選ばれたが赴任を渋り夢兆を口実に辞退を願い、帝の激怒を買って左丞の任命を取り消され単州団練副使・新州安置、父易簡も連座して落職した。建炎四年、賊馬進が江州を破った際、王易簡ら三百人と共に殺害された。
史論
- 三代以後、天下を長く保った王朝は漢・唐・宋のみである。漢唐末世は朋党が相対しても君子が支えて衰亡を遅らせたが、宋中葉のように純然たる小人政治で君主が辱められ国が播遷したことはなかった。蔡京は紹述を旗印に正士を排除し尽くし、上を欺き下を縛る術は巧妙であった。徽宗も一時京の専断を悟り鄭居中・王黼・李邦彦らを起用したが、不肖を不肖に代えたに過ぎず「野葛を去って烏喙に代える」ようなものであった。
- 王党・蔡党は互いに階を作って庇い合い、功を求めて禍を挑み、汴洛陥落の危機には無策のまま和議を乞うた。李邦彦・王安中・余深・吳敏らの誤国の罪は正しく処罰されるべきであったが、欽宗・高宗共に竄流の処分に留め、刑の失当というべきである。唐恪は張邦昌擁立の推戴状に署名した末に死んでも贖いきれない。曹輔のみは小臣ながら帝の面前で大臣を諫め罷免されても節を変えず、独り朋党に与しなかった点で賢と言うべきである。