宋史卷三百五十二 列傳第一百十一 曹輔

経歴

  • 曹輔、字は載德、南劍州の人、政和二年進士。祕書省正字として、徽宗が政和以降頻繁に微行し、外遊の実態が形骸化した朝儀・偽装の病気奏上によって覆い隠されている実態を痛烈に上疏。蔡京の謝表に「輕車小輦七度の臨幸」とあることから世間に漏れた事実を挙げ、君臣の信頼が民心離反を招く危険を説き、天子の外出には厳格な儀礼と節度をもって行うべきと諫めた。
  • この上疏は宰相らに審問されたが太宰余深は「小官が大事を語るのか」と一蹴、少宰王黼らも知らぬふりをしたが曹輔は「里巷の民でさえ知る事を宰相が知らぬはずがない」と反論。王黼は激怒して弾劾させたが曹輔は「ただ君を愛するのみ」と潔く応じ、郴州に編管された。
  • 靖康元年に召還され監察御史・殿中侍御史・左諫議大夫・御史中丞・延康殿学士・簽書樞密院事を歴任、金軍包囲下で親王大臣の出盟要求に応じて金軍に出向いたが果たせず、二帝と共に留められ、張邦昌の擁立を拒み帰還後康王に仕えて旧職に復し、まもなく卒した。詔により厚く恤まれた。