経歴
- 侯蒙、字は元功、密州高密の人。義に篤く施しを好んだ。寳鷄尉、栢郷県知事として公正な裁きで評判を得、監察御史・殿中侍御史に進む。崇寧の星変で十事を上奏(冗官整理・諫臣容認・嫡庶明確化・賢否弁別・冀寵絶・濫恩戒・民力寛・妄費節・戚里の政治介入禁止・宦寺の権抑制)し評価された。
- 高永年の戦死に関し帝が十八将を厳罰しようとしたのを、御史中丞として現地で「秦繆公が孟明を赦し晋侯が復讐した故事」を引いて諫め、処罰を回避させた。刑部尚書、戸部尚書として財利による功績誇示を退け、同知樞密院・尚書左丞・中書侍郎に進んだ。
- 張商英と蔡薿の対立では「宰相と言官を対等に廷弁させるのは国体を損なう」と諫め、蔡京への人物評は「心術を正せれば古の賢相に劣らない」としつつ密かに監視も行い京の反感を買った。大銭法改鋳の混乱を見抜き、亳州知事に落ちたが資政殿学士に復し、宋江の乱では「三十六人で斉魏を横行する才を方臘討伐に用いよ」と献策、帝に忠臣と評されたが赴任前に年六十八で卒し開府儀同三司・諡文穆を贈られた。
史論(張康國~侯蒙)
- 崇寧宣和の間、政は蔡京に握られ、罷免されてもすぐに姦党が再び蕃殖した。功利にしがみつく小人が京の門に群がったが、張康國・朱諤・劉逵・林攄はいずれもその類である。張康國・劉逵は蔡京と異なるところもあったが才智は京に及ばず結局は京党に討たれた。林攄は京の姦謀を奉じて隣国を怒らせ盟約を破り禍を招いた罪は最も重い。易に「国を開き家を承けるに小人を用うるなかれ」とあるのはこのことであろう。
- 管師仁は執政わずか二月で引退を願ったのはなお尚ぶべきである。侯蒙は五路将帥十八人の逮捕審理に際し力を尽くして道理を説き彼らを助けた点、まさに仁人の利を広める言というべきである。