経歴
- 唐恪、字は欽叟、杭州錢塘の人。四歳で父を失い他人が父を語るだけで泣くほどの人柄。蔭補で登第し郴県尉として無実の隣人を強要自白させようとする県令を諫め自ら真犯人を捜索して捕縛した。楡次県知事として豪族の脱税を穏やかに説諭し改心させた。
- 提挙河東常平、江東転運判官、䍧牱内附の招撫使として兵を伴わず単身赴き夷人を懐柔した。右司員外郎・起居舎人として遼使応対の後、河北辺備の弛廃を上奏し徽宗に「そなた以外に誰がやるのか」と評され都転運使・集賢殿修撰。中貴人の不正な市の要求を拒み左遷されたが、滄州で黄河決壊時に堤上で救援を指揮し、都水の孟昌齡の強要にも屈せず水を治めた。
- 保甲・保馬の負担軽減、水害民への租税減免を独断で実施し民に喜ばれ、龍図閣待制知揚州から戸部侍郎。汴水氾濫では「決壊させて浸水させれば民が魚鼈同然になる」と述べ、金隄を決して河へ導水し十日で治めた。帝に「宗廟社稷の安泰は卿の力」と労われ、水害を陰の兆しとして政治の慎みを説く上疏を行った。
- 宣和初、尚書に遷るが王黼の陥れで滁州知事に落ち、靖康初、金兵の汴京侵入時に李邦彦の推薦で同知樞密院、中書侍郎となり、旧悪の是非を性急に糾弾する風潮を「太上道君の心を傷つける」と諫め、欽宗にその見識を評価された。八月、少宰兼中書侍郎に至るも宰相としての大局観に欠け、金の三鎮割譲要求に「割譲やむなし」と応じ、諸道勤王軍を招集しながら自ら制止して撤退させる大失策を犯した。
- 金兵が城下に迫ると「唐が天宝の乱後に興隆したのは天子が外にあり四方を号令できたから」として太子を留め帝自ら西幸すべきと密奏したが、開封尹何㮚の「東遷が最悪」との反論で覆され、帝は死守を決意した。御史胡舜陟の弾劾で罷免、観文殿大学士に留まったが、京城陥落後は自ら再挙を悔い、張邦昌擁立の推戴状に署名させられた後、服毒して死んだ。