経歴
- 趙挺之、字は正夫、密州諸城の人。進士上第で登第し熙寧の学制で教授。徳州通判時代、士卒への銭配布を渋る郡守の府に群衆が乱入する騒動を、自ら堂上で処理し首謀者を治めて鎮めた。魏境の河川決壊を巡り転運使に反対意見を具申したが押し切られ、二年後に予想通り河が新城を襲い居民が流失した。
- 館職試験で秘閣校理となり監察御史に遷る。徳州で市易法を熱心に推進したことを黄庭堅・蘇軾に批判されたが、蘇軾の「民亦勞止」の起草文を誹謗と弾劾するなど、逆に反撃した。国子司業、太常少卿、吏部侍郎、中書舎人、給事中を経て遼への使者を務め、宴礼の格式を正した。
- 徽宗即位で礼部侍郎、哲宗祔廟の議で宣祖を遷すべきでないと主張し採用された。御史中丞、欽聖后陵儀仗使を経て曾布の内諭により紹述派として元祐諸人を排撃、吏部尚書から右丞・左丞・中書門下侍郎に進んだ。
- 蔡京独相の時、京と争い右輔として尚書右僕射を拝したが、京の姦悪を陳じて自ら去ろうとした矢先、彗星出現を機に帝が京の悪法を一掃し挺之が復権、特進・右僕射に再任された。崇寧初、京の辺事乱発を帝が憂慮した際「上は息兵を志す、我らはそれに順うべし」と語ったが、後に京が復相し挺之は大学士として佑神観使に留まり、年六十八で卒、司徒・諡清憲を贈られた。