宋史卷三百五十 列傳第一百九 趙隆

経歴

  • 趙隆、字は子漸、秦州成紀の人。王韶の熙河攻略に従い姚麟の負傷を救うため単身敵営近くの泉まで水を汲みに行った逸話がある。李憲の西市討伐、鬼章討伐で橋を焼き敵の退路を断って捕縛に貢献、涇原将として平夏川で功第一。
  • 崇寧中、熙河鈐轄として邈川攻略に従軍、涇原侵攻に対し熙河軍が深入りして鉄山で先登し敵を退けた。徽宗に「鉄山の戦、卿の刀による勝利であった」と労われた。童貫の燕雲侵攻論には「これは異日必ず祖宗二百年の好誼を破り万死に値する禍を招く」と強く反対、童貫もその義を認め殊拝はしなかった。
  • 知西寧州・隴右都護として羌豪十二種三万六千戸を帰順させ、劉法の西討に奇兵で羌を潰走させ震武城の危機を救い、温州防禦使・龍神衛捧日天武都指揮使・馬歩副都総管に至って卒し、鎮潼軍節度使を贈られ帝自ら「旌忠」の額を篆した。

史論

  • 国家を有する者は武備を忘れてはならぬ。高祖ですら「猛士を得て四方を守らせたい」と嘆いた。将たる者は武勇のみを貴ぶのではなく、必ず忠を主とし智を本とし勇を用とすべきで、成功の大小に関わらず主を尊び民を庇うに足りる。
  • 苗授の籛南築城反対、苗履の阿章討伐拒否、周永清の地を敵に与えぬ姿勢、王文郁の香崖招撫、劉紹能の忠勇、曲珍の忠朴好義、王光祖・楊應詢の敵情把握、張守約・張整の軍紀厳明、和斌・李浩の善戦、賈嵓・王恩の善射、劉闃の先登殿軍――その材は異なれど、四境の防衛を担う責を果たした点では一つである。
  • 郭成は辺陲を守り勤めて死に至り、詔で顕彰され一方の廟食を受けたのも当然である。王君萬は誣告と怨みで身を誤り、王贍は狡猾に功を求めた末、父子ともに罪死したのも当然といえる。和詵は燕京攻略を主唱しながら翻意し、罷免後に復官したのは刑の失当というべきである。劉仲武は敗れれば自ら罪を引き受け勝てば功を語らず、趙隆は賞を求めて事を起こさず、張蘊は栄を辞して分を守った――いずれも士君子の行いであり、武人には殊に難しいことである。