宋史卷三百四十九 列傳第一百八 郝質

経歴

  • 郝質、字は景純、汾州介休の人。若くして従軍し、強弓を引く技量は第一と評された。殿前班に補せられ供奉官に改任、知府州駐泊都監となり麟府の軍馬を統轄した。
  • 田朏と共に軍需輸送を護衛中、西夏数千騎の襲撃に遭い先駆して力戦、斬首と馬数百匹の獲得という戦功を挙げた。栢谷では敵に道を断たれたが寒嶺で防戦し、寧遠等の砦柵を修復して敵の衝を扼した。
  • 宣撫使杜衍・安撫使明鎬の推挙で内殿承制・并代路都監に抜擢され、さらに賈昌朝の推挙で路鈐轄となり貝州(王則の乱)討伐に従軍した。
  • 文彦博が城西に築いた立派な亭閣が焼失を恐れられた際、番人の藺干が他営へ遣わされた隙に焼失し、文彦博が藺干を斬ろうとすると、郝質は「藺干を遣わしたのは自分であり罪は自分にある、代わって死にたい」と申し出た。文彦博はその義を賞し両者を赦した。
  • その後六宅使、高陽関・定州・并代鈐轄駐泊副都部署、龍神衛捧日天武都指揮使・馬軍殿前都虞候を歴任し、賀州刺史・英州団練使・睂州防禦使を加えられた。豊州城を築き、歩軍副都指揮使・宿州観察使、召還されて宿衛・馬軍改任。英宗即位で武昌軍節度観察留後・安徳軍節度使・殿前副指揮使、神宗即位で武軍節度都指揮使に進んだ。
  • 元豊元年(1078年)卒し、帝自ら喪に臨み侍中を贈られ、諡は武荘。
  • 軍紀に厳しく違反者は容赦しなかったが犒賞は手厚く、不足すれば自ら俸禄を出して補った。生活は質素倹約で肉を重ねて食さず、信義に篤かった。田朏の死後はその功を表彰し孫を任官させ、貧窮した知人董熙の家に節度使となってからも約束通り娘を嫁がせた。閥閲によらず功次のみで昇進した。