出自と西夏経略
- 陶節夫、字は子礼。饒州鄱陽の人。晋の大司馬陶侃の裔孫。広州録事参軍として盗賊楊元を尋問だけで自白させた。新会県知事、章楶の涇原経略府に招かれ、崇寧初年、講議司検討官、虞部員外郎、陝西転運副使、知延安府として羌族の招降に功があり集賢殿修撰を加えられた。
- 石堡等4城を築く際、天険を利用した位置取りで西夏の窖粟(貯蔵穀物)を奪い、夏軍の反撃を撃退した。功で顯謨閣待制・龍圖閣直学士に進んだ。銀州築城の際、夏軍が涇原を狙うとの情報に対し正しく西進を予測し5日で銀州城を完成させ、夏軍を撤退させた。樞密直学士に進み、延安在任が長く蔡京・張康国の支援を受け続けた。
- 夏人の欵塞(帰順)を京の意向で拒み放牧者を殺害したため夏の大攻勢を招き鎮戎軍で数万人が殺害された事件があった。経制環慶涇原河東辺事を領し、興靈奪取の策を上奏し龍圖閣学士を加えられたが朝廷が経制司を廃止し占領地を放棄する方針に転じたため内郡(内地の官)を求め洪州・江寧府、青・秦二州、太原府を歴任した。太原では群盗李勉の乱に対し兵の撤収と計略による捕縛を主張、待制・知永興軍として数か月で没し龍圖閣学士を追復された。